古殿八幡神社

八幡神社

八幡神社由緒

社伝(明治3年神主竹貫図書より御支配所御役所に提出したもの)によれば、磐城国白川郡下山上村古殿鎮座若宮八幡正八幡の両社は、康平(こうへい)5(1062)年鎮守府将軍源頼義・義家親子が東夷(とうい)追討の際、逆徒強大にして官軍一たび利を失い、この地にあった時、京都男山八幡に祈誓した甲斐があって賊を退治することが出来た。それで康平7(1064)年当社を建立した。
領主の福田三郎広成は竹貫郷を領したので竹貫氏を称したが、代々隠居入道(にゅうどう)して修験(しゅげん)となり、頼義公建立の八幡を守護し、古き殿の居舘の故に今に至るまで地名を古殿と称した。領主崇敬の神なので、竹貫十三ヶ村の鎮守となった。
その後、建久(けんきゅう)年中(1190~1198)、鎌倉将軍頼朝より竹貫の領主に、永楽銭五貫文の社領地が下賜され、時の領主がこれを記念して領内の兵士達による鶴岡八幡宮で奉納されている流鏑馬・笠懸を神事として奉納するようになった。
天文年中(1532年~1555年)の雷火のため当社から別当居宅まで残らず焼失、書類なども皆失った。ついで天文20(1551)年11月1日竹貫三河守より、旧例の通り社地を賜う御墨附(おすみつき)を賜り、同年11月15日再建、続いて天正20(1592)年10月3日竹貫重光より、文禄5(1596)年6月10日竹貫隆宗より墨附をというように、その時々の領主 より別当並びに社僧社人の屋敷等寄附があった。その後、竹貫の領主は岩城領主常隆に随って富岡に居舘を移してからは慶長8(1603)年2月4日大関左門、太田原備前 守両氏より、昔から崇敬の神社なので先規に任せ社領を賜う。同12(1612)年12月6日社中下知状(げちじょう)を別当に与えた。
のち寛永年中内藤豊前守棚倉の領主となり、この地を領せしにつき寛永6(1629)年5月7日造営、同7(1630)年12月2日社中下知状を下され、社中造営並びに祭礼のたびに 代参があった。その後、竹貫郷十三ヶ村で毎年三ヶ村ずつ当番の定めで9月6日より9日まで、天下泰平、五穀成就の祭礼を行っている(「磐城国白川郡竹貫郷 拾三箇村惣社山上村之内下山上分古殿鎮座八幡太神由来御尋二付奉申上候、右神主竹貫圖書、明治三午年五月御支配所御役所」宛の文書による)。

修験としての竹貫家

現在の八幡神社はもとは八幡大菩薩と称した。場所は石川郡古殿町大字山上字古殿。明治以前竹貫家は大善院と称し、聖護院(しょうごいん)に属する本山派の修験で、八幡大菩薩の別当職で、明治の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の時に神職となり、神社名も八幡神社と改められ た。現在の当主は神社本庁に属し、八幡神社の宮司をつとめている。
八幡神社の由緒は大体上述の社伝の通りであり、竹貫家は古くから土地の舘主であり、修験であった。福田三郎広成の時、新来の源頼義に属し、八幡の別当となり、且つ福田を改めて竹貫と称したという。同家の屋敷は空壕を持つ舘跡(たてあと)と思われ、現在庭園も古いままに残っている。
この辺では大善院は石川の大蔵院と共に修験としては高い地位にあったといい、位牌の一つに「三僧祇大善院祐義金剛位、嘉永三年庚戌正月初四日」などというのが見える。
修験としての用具等はあまり残っていないが、文書では裁許状(さいきょじょう)の類、棟札の写し、医療や呪い関係など残っており、筮竹(ぜいちく)のよう なものもあったという。旧修験の頃から残っているものでは懸仏(かけぼとけ 鉄製19.0センチメートル)、仏像(木製観音か、台座とも66センチメート ル。欠損像種不詳の仏像、丈54.5センチメートル)、仏画正信筆がある。

大善院の記録しておいた棟札類

古殿八幡の棟札の類は数多くあり、古いのは康平7(1064)年であるから、神社の縁起から類推して後で当てたものであろう。即ち康平7(1064)年は源頼義によって社殿が創建 されたと伝える年である。とにかく何れの年号にも、建物を建てた人の姓名とか、時の大壇那(おおだんな)の名とか、時の別当の名などを当ててある。
なお、大善院の記録にある最後の棟札は安永3(1774)年であり、大善院の記録は丑8月とだけあるから安永3年後の丑は天明元年になるので、あるいはこの年に記録したものか。
古殿八幡という名称は、普通、時の領主福田広成以下代々の領主が、隠居の後入道して修験者となり、神社を守護する別当になったために「古い殿様」の守る八幡様であることから起こったと伝えている。別に古いお社という説もあるというが判然としない。現在の町名「古殿町」も、これに由来している。
なお、神殿は、天文18(1549)年落雷によって焼失し、同20年再建されたという。現在の社殿の建築年代はわからないが、そう古いものではないという。

祭礼と笠懸・流鏑馬

祭礼と笠懸・流鏑馬
起源は不詳であるが、言い伝えでは、竹貫郷十三ヶ村の鎮守として崇敬せられている所に建久5(1196)年、源頼朝から竹貫の領主に社領地が下り、時の竹貫領主はこれ を記念して、領内兵士達による笠懸(かさがけ)と流鏑馬(やぶさめ)を盛んにして祭礼当日の神事としたと伝える。棚倉藩になっても祭礼当日は領主の代参は 欠かさなかった。
八幡神社の祭りは、旧暦9月8日、9日であったが、近年になって新暦10月の第2土曜、日曜と改められた。祭りの中心になるのは笠懸と流鏑馬であるが、時に中断されたこともあったというが、推定して800年も続いているという。
度々の落雷や大平川の氾濫等で、境内の損潰、建物倒伏等で祭りは中断されたこともあったが、領主の庇護(ひご)十三ヶ村の氏子の厚い信仰心により再興され、また、笠懸、流鏑馬の十三ヶ村毎の輸番制も定まって継続して現在に至り、近年一層盛んになった感がある。

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