作法・名称

笠懸と流鏑馬の作法

笠懸と流鏑馬の作法
笠懸と流鏑馬は、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射(きしゃ)三つ物といわれ、中世武士の武術錬磨のための武芸であった。古くは吉凶を占う意味も あったと思われ、今なお、射られた的は縁起物として、あるいは魔除けになると信じられ、奪い合ったり、分け合うなどしている。犬追物はまた、屏風絵の題材としてもよく取り上げられ、行事が衰えた江戸時代になっても描かれた。

笠懸は遠方の的を射る「遠笠懸(とおかさがけ)」と、近くの的を射る「小笠懸(こかさがけ)」とがある。古くはいずれも綾藺笠(あやいがさ)を射たというが、のち的は遠笠懸となり、直径1尺8寸(約55センチメートル)の革包みの円板、小笠懸は4寸(約12センチメートル)四方の板となった。射手の装束は烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)、行縢(むかばき)で、蟇目といって朴(ほう)か桐で作った大きい鏑(かぶら)をつけた矢で射る。抉(さくり)、いわゆる馬場の長さは1町(約107メートル)で、的は前者は一つで距離は約18メートル、後者は数個のこともあって約24センチメートルである。記録は平安中期からみられるが、鎌倉時代が最盛期で『吾妻鏡』では東国武士の気風と讃えられ、室町時代以降衰えた。

流鏑馬も平安時代の書物にみえ、当時すでに武芸として型を整えていたといわれる。これも鎌倉時代になって隆盛を極め、『平治物語』や『源平盛衰記』などにみえ、鎌倉の鶴岡八幡宮では、文治3(1187)年8月16日に源頼朝が初めて十番の流鏑馬式を行わせており、毎年9月16日に行うことが恒例となったと伝えているように、『吾妻鏡』にも同八幡宮の放生会(ほうじょう)の神事として行ったことが記されている。

装束は水干または直垂に射籠手(いごてえ)、行縢、太刀、刀、箙(えびら)で、折烏帽子(おりえぼし)に綾藺笠をかぶる。箙と綾藺笠をつけることが笠懸と異なる。室町時代の馬場は、長さ2町(218メートル)で、馬場本(出発点)から一の的までは20間(36メートル)、それより40問(72メートル)ごとに二の的、三の的を立てている。これも南北朝以後衰え、室町時代にはほぼ廃絶したが江戸時代中期に再興され、今日では神事として八幡系の神社の祭礼に行 われている。

福島県内で、流鏑馬は当社のほか、やはり源頼義の勧請にはじまるという、いわき市平の飯野八幡宮で9月14、15の両日に行われている。

今次大戦直後までは伊達郡川俣町字宮前の春日神社でも行われており、『新編会津風土記』には高久村(現会津若松市神指町高久)の八幡宮の項に「縁起に源義家朝臣東征の後寛治中の草創にて、(中略)昔は流鏑馬の儀式ありしにや今に社の西に馬場田の字残れり」とあるほか、大沼郡会津高田町の伊佐須美神社と耶麻 郡猪苗代町の磐掎神社にもあったと記されている。

笠懸は、県内では当古殿八幡神社のものが唯一である。

名称

古殿八幡神社の秋の例大祭には、古式にのってこの笠懸と流鏑馬が、天下泰平と五穀豊穣を祈って行われる。

流鏑馬には、役者がヨイヤサの掛け声をかけるが、その勇ましい声が印象に残ったためであろう、かつては俗に「よいやさの祭り」ともいった。近年は、祭りを流鏑馬で代表して「古殿八幡神社の流鏑馬」と呼ぶこともある。

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