祭日と役割

祭日

元来旧暦9月8、9の両日であったが、昭和43年から現行の新暦10月の第2日曜日とその前日になり、土曜日が宵祭り、日曜日が本祭りである。

役割と運営

祭りは、古くから竹貫郷に属する十三ヶ村が3、4ヶ村ずつ輪番で出て、祭礼全般の諸役を分担してきた。神社所蔵の天保13年(1842)の祭礼帳に は、当時の村名として入山上村、下山上村、論田村、大久田村、上松川村、下松川村、竹貫村、田口村、鎌田村、仙石村、宝木村、戸倉村、石井草村の十三ヶ村 が記してある。

各村に残っている記録のうち、年代がほぼ揃っている文政から嘉永年問(1818~1853)までの組合せをみると、
(1)入山上村・下松川村・大久田村
(2)竹貫村・鎌田村・宝木村・石井草村
(3)上松川村・下山上村・論田村
(4)田口村・仙石村・戸倉村
であり、この組合せは明治初年まで続いたと思われる。

これが明治25(1892)年に取り決められたと思われる「郷社八幡神社永続方法規約」によると、
(1)宮本村の内 松川上分・山上下分・論田
(2)竹貫村の内 田口・仙石・鮫川村の内 西山戸倉分
(3)宮本村の内 松川下分・大久田・山上上分
(4)竹貫村の内 竹貫・鎌田・鮫川村の内 西山宝木分・石井草
となった。その後、記録が揃っている昭和三十年代をみると、決まって三区ずつとなったようで、
昭和33(1958)年 大久田・田口・仙石
同34(1959)年 下松川・上山上・鎌田
同35(1960)年 竹貫・西山・論田
同36(1961)年 上松川・下山上・田口
同37(1962)年 大久田・仙石・上山上
との組合せで続き、さらに、
昭和42年 下松川・西山・竹貫
を最後に、西山区が抜け、以後は、
昭和43(1968)年 下山上・上松川・論田
同44(1969)年 大久田・田口・仙石
同45(1970)年 上山上・鎌田・下松川
同46(1971)年 竹貫・下山上・論田
同47(1972)年 仙石・上松川・田口
同48(1973)年 上山上・鎌田・大久田
と、10区が3区ずつ輪番であたっている。

前述の「永続方法規約」には、当番の区は祭日の5日前までに「本舞馬」「笠懸馬」「手伝馬」「予備馬」を各1頭、役者と役者添え各1名、的、矢を準備することとある。

かつて馬は当番区の農耕馬を用いたが、戦後は他地区から借りたこともあった。
また、奉賛会が北海道産の馬を買求め、役員が飼育した時期もあったが、平成5年からは松川字三株の三株牧場内に乗馬クラブができたので馬の確保が容易になり、流鏑馬保存会が後継者育成のために練習場も作った。

役者は笠懸と流鏑馬を行う役で、各区から1名ずつの計3名が出る。

さらに同数の役者添い(役者付きまたは副役者ともいう)も選ぶ。また、役者にはそれぞれの区から2名ずつの口取り(現在は乗馬係という)が付く。役者は直 垂を着て袖と裾(すそ)をくくり、射籠手と行縢を付け、鳥帽子の上に綾藺笠を被り、太刀を妻が用いた花嫁衣装の帯で背負い、小刀をたばさみ、鏑矢(かぶら や)五筋を入れた箙も背負って、弓を持つ。弓と馬のたてがみには幣束を結ぶ。鐙(あぶみ)は用いず、細い棒を綱に結んだものを馬にかけ、これに足をかけ る。

八幡神社の責任役員は、神社総代と氏子総代の二つがある。神社総代は、神社鎮座地の下山上区から2名、他の9つの区から各1名の計11名で、4年を任期と し、神社の維持等にあたる。氏子総代は各区1名ずつの10名で、行政区長が兼ね、任期は区長と同じ2年である。神社の事業や行事、運営、神社財産の取得や処分などの重要な事項は、両総代による総代会で決する。

当番区にあたった氏子総代は当番区総代ともいい、笠懸や流鏑馬など、当番区が行う神事の責任者となる。当番に当たらない氏子総代は、祭典行列に供奉し、社殿での祭典に列席する。

なお、祭礼についての準備と運営は、戦後は「古殿八幡神社奉賛会」があたっている。同会には会長、副会長、庶務、会計を各1名ずつ置き、神社総代から互選 している。また、笠懸と流鏑馬にかかる調査研究と保存・継承には、平成4(1992)年12月から「古殿町流鏑馬保存会」があたるようになった。

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