宵祭り

当番区では、宵祭りの前日までに笠懸と流鏑馬に用いる馬と、弓矢、装束などの一切を準備しておく。

出陣式

当日の午前、当番区の奉仕者は正装で、それぞれの区長宅に集まり、出陣式を行う。まず、当番区総代から「取り落ちのないように」との言葉があってから、「高砂」と「四海波」の謡があり、膳を囲んで酒を汲み交わす。

奉仕者乗り込み

これより当番区総代、役者、神社総代は的を持って馬に乗り、当番区総代を先頭にして列を組んで、正午近くに神社に乗り込む。

神社参拝

一行は乗馬のまま社前に進み、馬上から参拝して無事に奉仕できることを祈り、境内の籠もり堂に入る。
これより当番区総代と役者は、祝儀を持って宮司宅に向かい、挨拶をする。のちに宮司は返礼として神酒を籠もり堂に届ける。

なお、籠もり堂は、間口5問(9メートル)、奥行3間(5.4メートル)で、近年この裏に間口2間(3.6メートル)、奥行1.5問(2.7メートル)の賄(まかな)い場(炊事場)を付けた。

馬は張り馬屋(馬舎)に入れる。馬屋は間口約11間(約20メートル)、奥行1間(1.8メートル)で、22頭分に仕切ってある。

宵乗り

午後3時、まず「馬場ならし」で、副役者が馬場を走る。
これより三人の役者が笠懸と流鏑馬を一回ずつ行う。
同3時30分に、まず笠懸、そして流鏑馬となる。
なお、宮司宅入口にある道場は、名のとおり修験当時に用いた道場で、2階にはこの日当番区総代だけが入り、笠懸と流鏑馬を検分する。

御伺向

午後5時、当番区総代3名がかつては赤飯一重、現在は祝儀を持って、神社至近の矢内栄二、矢内達也の両氏宅に向かい「お世話になります」と述べ、両家では 「安全に執り行われるように」との挨拶を交わす。このあと一行は饗応にあずかる。
「御伺向」の名称がつけられたのと、同家で饗応するようになったのは、今 次大戦後からである。
また、近年は役者3名も同行するようになった。
 これがすむと、一同は籠もり堂に入って、本祭り午前零時の「沐浴」を待つ。

なお、両矢内家は一族で、かつてはもう一軒あって、落馬などで怪我人が出ると三軒ですべて引き受けて世話をした。この御伺向の意味は必ずしも明らかでな く、江戸時代の祭りに関する記録には見当たらないが、明治25年の「永続方法規約」第三十二条に「郷社ニ対シ矢内権之助(現栄二氏)、矢内冨貴之助(現達 也氏)、矢内伊森(現在子孫は上山上地区に移住)ノ三氏旧労アルヲ以テ祭典ノ時各当番村ノ惣代右三家江出張礼儀ヲナシ且ツ赤飯ヲ壱重宛寄贈スルヲ例トス」 とあるので、少なくともこれ以前からは行われていた。また、矢内家はかつて八幡神社鎮座地の旧下山上村の名主で、現在も矢内栄二氏宅には古いものでは「貞 享(じょうきょう)三年寅ノニ月三日本郷分前新田高帳下山上村」(1686)を初めとして、享和2年(1802)の「村名主組頭相定帳」や文化13年 (1816)の「寅御年貢納割附事 矢内勘次郎」など、正徳、寛保、延享、寛延、宝暦、天明、安政の各年問の名主関係文書がかなり残っている。

さらに明治年間までは、神社の管理や祭礼について宮司の補佐をつとめた「鍵取り」ともいわれていたので、これらの関係もあるかも知れない。

お籠もり

祭りに奉仕する3組の全員は、この夜、籠もり堂に籠もる。庖仕(ぼうじ)といっている賄い役も全て男子で、古くからの習わしとして女人を禁じてきた。
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