中世の古殿

第ニ章 中世の古殿

第一節 石川氏の発展
石川氏が領した石川庄は、おそらく『和名抄』に見える白河郡の石川郷および藤田郷をもとにして成立し、のちに鹿田郷(本町および鮫川村付近)、矢吹町の一部である堤なども含む範囲に拡大したようで、これが平安後期にすべて成立したものではなかろう。少なくともそれから鎌倉末期までの約4世紀の間に開発が大きく進められたものとみられる。
第ニ節 竹貫、蒲田、仙石氏等の成立
弘長元年(1261)の『秋田藩家蔵文章赤坂文書』には、坂路・千石・富沢・谷沢・都賀・川辺・給当・堤廻谷・蒲田の村々が記されている。『伊勢結城文書』の建武元年(1334)北畠顕家が石川庄に与えた陸奥国司下文案には『当庄内鷹貫・坂地・矢沢三ケ郷』とあり、『飯野文書』建武4(1337)年の伊賀盛光代麻績盛清軍忠状に『石川松河四郎太郎』の名が見え『奥州文章一』の明徳5(1394)年沙弥賢雄年貢請取状には『石河庄蒲田内三分壱赤坂村』とある。これらの文書に見える、千石は今の仙石、蒲田は鎌田、松河は松川であり、坂路・坂地は同名の所、谷沢は矢沢、鷹貫は竹貫の異字である。これらの土地はいずれも鮫川、組矢川の河成平野に点綴した村々で、これらの土地にはそれぞれ、城あるいは館跡がある。
◎蒲田氏(鎌田)と鎌田城
鎌田城によっていた鎌田氏は、中世文書には「蒲田」の字があてられて、その動静は『赤坂文書』にくわしい。
赤坂文書は『秋田藩採集文書』『奥州文書』に集録されている「赤坂忠兵衛光康家蔵文書」が中心をなすものである。赤坂氏の祖は鎌田氏がその庶流で、中世末には鎌田村の端郷であった隣村鮫川村赤坂の館において佐竹氏に属し、後佐竹氏に従って秋田に杉ったものである。
鎌田村は弘長元(1261)・文永2(1265)年等の赤坂文書の争論の土地となった村落で、石川庄川尻郷蒲田村といわれ、はじめ坂地光行の領地と認められている。鎌田氏(蒲田)が村名を名乗って、その名が本県史上に著われてくるのは鎌倉末期で、嘉暦2(1327)年の「関東御教書」(赤坂文書)では、石河大炊助又太郎が、蒲田総領を名のっている。
蒲田城は、大字鎌田の、鎌田八幡社の対岸鮫川が鮫川村から流れて東折する山上にある山城で、館山といわれ八幡館という。標高約450メートルにある要塞で、また字淵の上148番地を「淵館」という。
麓の組矢川のほとり水田中に館跡があった。耕地整理によって旧態は失なわれてしまったが、復原略図(永沼誠一原画)によると、水堀と
土塁がめぐらされた平館で、面積約1.5アールぐらい、蒲田氏平時の際の居館であったろう。
通常中世の城館は、和戦両様の備えがあり、普通は麓の平館にすみ、家臣団毛その周囲に家屋がある。いったん急を告げると峻瞼な山城に籠り決戦に備えるので、その姿を蒲田城館はよく示したものといえよう。
鎌田八幡はその鎮守で、社地に「嘉暦元(1326)年四月八日」の年紀がある金剛界大日の種子供養石塔(板碑)がある。この附近の字名を「長光地」というのは寺名で、鎌田八幡の別当寺か、鎌田氏の菩提寺の名であろう。この山も館跡で八幡館といい仙石の太鼓館と峯つづきで、或る時期に鎌田氏の牙城となったところであろう。
また八幡山の対岸字下房に、松岩山という山があり、ここに4基の板碑がある、一基に「嘉元二(1304)年甲辰四月二日」他の一基に僅かに「忌辰・敬白」の字がある。鎌倉末期様式の板碑で、麓に松岩山彦根寺の旧跡がある。
千石氏の名が出るのは南北朝になってからで、『白河古事考所収文書二』観応3(1352)年の吉良貞家吹挙状案によると「干石大和権守時光」の名がある。当時石川氏の嫡流は駿河権守光義で、南党(宮方)につき、庶流である蒲田兼光・板橋高光らは北党に組して互に攻めあっていた。板橋高光の兄である千石六郎時光は宗家の光義と共に北畠顕家に同意しており、弟高光は兄の時光を当代随一の凶徒とののしり、石川庄の内干石、板橋および河辺八幡の将吉良貞家の吹挙状を求めている。
干石は仙石であるから蒲田兼光と隣り合っており、一族兄弟が南北両党に分れて争っていたのである。千石氏の館は大字仙石字松が平151番地で、須々受宮(すずめのみや)神社前の小高い山で「雀が城」ともいう。その東麓にあたる字寄居42番地から藪木内1番地にわたる約4.5反歩(45アール)を館跡田(たてあとだ)と呼んでいる。耕地整理されて水田となり遺構が失なわれた。やはり仙石氏の平館であろう。
また大字仙石字照内123番地は、県道北側の小高い山で、『太鼓館』とよばれている。頂上にのぼると大字田口方面がよく望見され、鎌田八幡館の峯続きで、仙石館の見張山が出城であったのであろう。
『陸奥国石川風土記』に「一、仙石雀か城仙石光俊居永禄年中落城此所雀縄手竹貫石川の大境なり此村之内和久と云屋敷高七十石化被免として附送りし所迚今に石川に属したるなり」
◎竹貫氏と竹貫城
竹貫氏は古殿町史としては最も早くその名が現われている旧族であるが、初代の川尻二郎三郎季康はどこに居館があり、その系統がどうなったかは不明である。一説に竹貫氏の本姓は福田であるという。
『石川氏一千年史』の石川系図によると十八代義光の弟光宗が「竹貫家を嗣ぐ」とある。竹貫は、円覚寺文書には「高貫」伊勢結城文書では「鷹貫」とあり、現在呼びならわされている「タケヌキ」は誤りで、「タカヌキ」と読むのが正しい。
鎌倉市史所収の『円覚寺文書』によると、元亨3(1323)年執権北条高時は父貞時の十三年忌に際して後室安達氏と共に、鎌倉円覚寺法堂、建長寺華厳塔を新造し、各種の仏事を修した。このとき10月27日金沢貞顕以下182人の御家人が砂金・太刀・銭・馬人の他をたくさん高時に進献している。その人名の中に須賀川二階堂長沼氏、結城氏とならんで本県関係の武士があるが、これに石河大炊助又太郎・石河孫太郎入道・石河小太郎・石河河尻六郎・石河大寺孫太郎・石河須鎌彦太郎・石河牧木工助又太郎・石河高貫弥五郎・石河沢井六郎入道・石河大島六郎・石河沢井小六郎らが各々馬一頭を進献している。
これによると石川氏は北条氏御内人(みうちびと)としての従属性を示しているもので、石川の庶流が嫡流を中心としながらも、独立して北条氏と関係を結んでいたことを示すものとして重要な史料である。
竹貫氏の城館は新古の二つある。旧城は大字竹貫字竹貫町の中心北にあって、山頂に稲荷神社があり、駒ケ城とも呼ぱれている。『棚倉沿革私考』に新城は旧城の南に相対する小山を陣場といいその東龍台寺の後を東館一名クヌキ(『木』へんに『解』)城といわれる。
◎竹貫古城
同書に竹貫は棚倉の北六里11町余にあり浅川の入口より塚本西山鎌田を経て竹貫に達す。竹貫は十三ヶ村の親村にて山間の一小都会也、建武の古文書に鷹貫に作る。
新城は、新館山または東ノ館といわれ、駒か城の東、龍台寺の後山で、一名牛が城東館また柏城ともいわれている。この新古二城は諸書に混同されている。次に掲げる『棚倉沿革私考』その他に「ママ」と附したものは誤りを表示したものである。この点『棚倉沿革私考』よりも古い『磐城志』は正しい。『磐城志』に「竹貫は平城の西十一里駒ヶ城といふ館址なり。一名クヌキ(『木』へんに『解』)の城と一山孤独の丘の上にて、四方二三十問許昔は東麓の龍台寺の方より登りしと見ゆ。其辺に水野勘解由の宅址あり、城の南相対する小山を陣場と呼ぶ。又東に離れ二町許龍台寺の後山越東館と名づく。駒ヶ城よりも高し。猶其東の方の山続きは堀切りて特に警戒せし様なり。龍台寺はもと田口村に在りしを移ししなれば寺内は麓の郭内なるべし。」
◎新館城(館山、東館)
前記のとおり、古城(駒が城)の東、龍台寺の後、新館山にあり牛ヶ城という、文字通り新城で『棚倉沿革私考』によると天正四(1576)年の築城であるという。
同書の「竹貫古城」の説明に「牛ヶ城と云は、初築城の時地堅めに城山の麓四方に生牛を竹の簀(すのこ)詰にして埋めたるより此名ありと云」と記述されている。
竹貫城は、竹貫十三郷の領主竹貫氏累代の城跡で、仙石館も鎌田城も周囲にいくつかの出城をもっている。有為転変の甚だしい南北朝から戦国時代にかけての地方豪族、小土蒙の栄枯盛衰を示すものとして、この竹貫城は悲劇の城跡であったろう。遂に最後は富岡に転封され、続いて録を失なって故郷を捨てた戦国武将の悲涙がこの山城にこもっているようである。いやそれよりはこの二つの城を築くにあたり使役され、戦毎に兵糧を供出し、時には兵火に身をさらさなければならなかった竹貫十三郷の庶民の血涙をしのぶ遺跡というべきであろう。

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