原始時代の古殿
第一章 縄文時代の古殿
一 考古学調査の現況
古殿町域に何時ごろ人類が住みつき、どのような歴史を展開したか、またその特質などを明らかにすることは非常に困難なことで ある。原始時代の研究は、文字で書かれた資料がないため、当時の人々が残した遺跡・遺物の究明によらなければならない。しかし、当町内における考古学研究 は日が浅く、十分な資料がない。現在発見されている縄文時代の遺跡の数は10ヵ所、弥生遺跡は2ヵ所のみであり、発掘調査が行なわれたのは三株山遺跡のみ である。
古殿町域に何時ごろ人類が住みつき、どのような歴史を展開したか、またその特質などを明らかにすることは非常に困難なことで ある。原始時代の研究は、文字で書かれた資料がないため、当時の人々が残した遺跡・遺物の究明によらなければならない。しかし、当町内における考古学研究 は日が浅く、十分な資料がない。現在発見されている縄文時代の遺跡の数は10ヵ所、弥生遺跡は2ヵ所のみであり、発掘調査が行なわれたのは三株山遺跡のみ である。
二 原始時代の概要
人類の歴史は、数10万年あるいは200万年ともいわれ、今日に至るまで複雑な歴史を展開させている。この長期間にわたる人間の歴史を文化内容の相違をと らえ、時間・空間的にいくつかに区分することが行なわれている。現在、時期区分として一般に用いられているのは「原始→古代→中世→近世→近代」という変 遷である。ここでは、この時代区分にしたがい人類の歴史の中で最も古い「原始時代」についてのべるわけである。
原始時代の設定については、人類の誕生から古代奴隷制社会に移行するまでを原始社会としてとらえることとする。その実際の下限については、種々問題がある ところであるが、ここでは豪族が高塚式古墳をきずいた、いわゆる考古学上の古墳時代をもって階級制度確立の時期とみなし、それ以前の三世紀末までを原始時 代としてとりあげることとする。
原始時代内部を考古学上では「旧石器時代→縄文時代→弥生時代」と時代区分を行なっている。
旧石器時代は、考古学上の世界的な時期区分の一つであり、地質学上の洪積世(今から1万~200万年前)に属する人類始源の文化であり、まだ土器や金属器 を知らず、石を打ち欠いて作ったいわゆる打製石器を主要な遺物として現在にのこしている時期であり、狩猟と白生植物の採集によって生活していた時代であ る。
縄文時代は、旧石器時代に後続する新石器時代と時間的にはほぼ平行する。しかし、世界的な時期区分である新石器時代は、牧畜あるいは農耕を伴うことが定義 となっているが、縄文文化にはこの形跡がなく文化内容の差が見られるので、新石器時代という名称を用いず縄文時代とよんでいる。
弥生時代は、紀元前3世紀ごろ大陸文化の影響をうけて北九州地方を中心として誕生した新しい文化であり、金属器の使用、織物の普及とともに、その後の日本文化と深い結びつきをもつ稲作が普及した時期であり、採集生活から生産社会に推移した画期的な時期でもある。
人類の歴史は、数10万年あるいは200万年ともいわれ、今日に至るまで複雑な歴史を展開させている。この長期間にわたる人間の歴史を文化内容の相違をと らえ、時間・空間的にいくつかに区分することが行なわれている。現在、時期区分として一般に用いられているのは「原始→古代→中世→近世→近代」という変 遷である。ここでは、この時代区分にしたがい人類の歴史の中で最も古い「原始時代」についてのべるわけである。
原始時代の設定については、人類の誕生から古代奴隷制社会に移行するまでを原始社会としてとらえることとする。その実際の下限については、種々問題がある ところであるが、ここでは豪族が高塚式古墳をきずいた、いわゆる考古学上の古墳時代をもって階級制度確立の時期とみなし、それ以前の三世紀末までを原始時 代としてとりあげることとする。
原始時代内部を考古学上では「旧石器時代→縄文時代→弥生時代」と時代区分を行なっている。
旧石器時代は、考古学上の世界的な時期区分の一つであり、地質学上の洪積世(今から1万~200万年前)に属する人類始源の文化であり、まだ土器や金属器 を知らず、石を打ち欠いて作ったいわゆる打製石器を主要な遺物として現在にのこしている時期であり、狩猟と白生植物の採集によって生活していた時代であ る。
縄文時代は、旧石器時代に後続する新石器時代と時間的にはほぼ平行する。しかし、世界的な時期区分である新石器時代は、牧畜あるいは農耕を伴うことが定義 となっているが、縄文文化にはこの形跡がなく文化内容の差が見られるので、新石器時代という名称を用いず縄文時代とよんでいる。
弥生時代は、紀元前3世紀ごろ大陸文化の影響をうけて北九州地方を中心として誕生した新しい文化であり、金属器の使用、織物の普及とともに、その後の日本文化と深い結びつきをもつ稲作が普及した時期であり、採集生活から生産社会に推移した画期的な時期でもある。
現在、古殿町からは、旧石器時代の遺跡・遺物は発見されていない。しかし、洪積世の古殿町の自然環境は安定しており、1万年以前の旧石器時代にも人々が、古殿町の山野に獣を追い、あるいは自生する植物を求め、生活を行っていたと思われる。
一 縄文時代の概要
長期問続いた旧石器時代も今から約1万年前になると、地質学上の沖積世となり、考古学上の新石器時代を迎える。日本列島における新石器時代に平行する文化は、土器の製作を行ない、また各種の磨製石器類も発達しており、新石器時代的要素を備えているが、しかし、牧畜もしくは農耕を明らかにすることができず、むしろまだ狩猟を生業とした段階にあったと考えられている。この点、時間的には新石器に属しながらも文化内容の相違が指摘され、日本列島内で独特の発展をした得意な文化と考えられる。
したがって、この文化を新石器時代とはよぱず、この時代の主要な遺物の一つである土器に、縄目の文様が非常に多用されていることから、これらの土器を縄文土器とよび、ひいては、この文化の時期を縄文時代とよんでいる。
沖積世における地形の変化は、一般に大きな動きはなく、縄文時代もほぼ現在も地形に近いものであったと考えられるただ気候は、海進現象(気候が温暖なため、極地の氷などが溶け、海面が上昇し、海が陸地に食い込む現象)が見られる時期があり、現在よりは温暖な気候が続いたようである。
古殿町内で現在知られている遺跡は次の通りである。
長期問続いた旧石器時代も今から約1万年前になると、地質学上の沖積世となり、考古学上の新石器時代を迎える。日本列島における新石器時代に平行する文化は、土器の製作を行ない、また各種の磨製石器類も発達しており、新石器時代的要素を備えているが、しかし、牧畜もしくは農耕を明らかにすることができず、むしろまだ狩猟を生業とした段階にあったと考えられている。この点、時間的には新石器に属しながらも文化内容の相違が指摘され、日本列島内で独特の発展をした得意な文化と考えられる。
したがって、この文化を新石器時代とはよぱず、この時代の主要な遺物の一つである土器に、縄目の文様が非常に多用されていることから、これらの土器を縄文土器とよび、ひいては、この文化の時期を縄文時代とよんでいる。
沖積世における地形の変化は、一般に大きな動きはなく、縄文時代もほぼ現在も地形に近いものであったと考えられるただ気候は、海進現象(気候が温暖なため、極地の氷などが溶け、海面が上昇し、海が陸地に食い込む現象)が見られる時期があり、現在よりは温暖な気候が続いたようである。
古殿町内で現在知られている遺跡は次の通りである。
(古殿町縄文遺跡地名表)
遺跡番号 | 遺跡名 | 所在地 | 時期 | 出土遺物(カッコ内は所蔵者名) | 摘要 |
1 | 下鵰巣 (しもくまだかす)遺跡 |
大字論田字下鵰巣 (古殿町縄文遺跡地名表) |
・石棒(本郷孝雄) | ||
2 | 長八内 (おさがうち) 遺跡 |
大字山上字長八内118 | 後期 | ・後期土器片・ ・石鏃(矢内宗左衛門) |
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3 | 中井遺跡 | 大字山上字平20 | 晩期 | ・晩期土器 ・石斧 ・その他(弥生土器) |
|
4 | 青柳遺跡 | 大字田口字青柳 | ・石棒 ・石錘 ・石鏃(吉田伝) |
||
5 | 萱付遺跡 | 大字松川字萱付 | 後期・晩期 | ・後期〜晩期の土器 ・土偶 ・石棒 ・その他(渡辺桂吾) |
|
6 | 瀧ノ平A遺跡 | 大字松川字瀧ノ平 | (後期?) | 石斧・ 磨石(大原小学校) |
大原小学校 瀧ノ平分校の裏の畑 |
7 | 瀧ノ平B遺跡 | 〃 | 不明 | 昭和35年前後、 土器出土(現存せず) |
入道湯の南下の水田 |
8 | 三株山遺跡 | 大字松川字三株 | 中期 ・ 後期 |
・中期土器少量、 ・後期土器 ・土偶 ・土錘(古殿町公民館) |
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9 | 犬仏遺跡 | 大字山上字犬仏(?) | 前期 | 土器一片 (古殿町公民館) |
|
10 | 有実遺跡 | 大字大久田字有実(?) | 石棒(大山祇神社) |
第二章 弥生時代の古殿
縄文文化は長期間にわたり、日本列島内で独自の発展をなしてきたが、晩期になると石鋸あるいは支石墓など大陸文化の影響をうけたものが九州地方でわずかで はあるが発見されるようになる。更に紀元前3世紀ごろになると大陸系の磨製石斧・抉入石斧・石包丁などの石器と、金属器や織物とともに稲作をともなう新し い文化が北九州地方を中心として誕生した。いわゆる弥生文化である。< 沖積平野への分布は、現在の水田を主体とする農業経営の立地と類似するもの であり、水田経営との結び付きが弥生時代から確立したことが遺跡分布の上からも知ることができるのである。
当町内で現在発見されている遺跡は次の2カ所である。
当町内で現在発見されている遺跡は次の2カ所である。
遺跡番号 | 遺跡名 | 所在地 | 時期 | 出土遺物 (カッコ内は所蔵者名) |
摘要 |
11 | 瀧ノ平C遺跡 | 大字松川字瀧ノ平 | 中期 | ・土器・石錘 ・環状石斧 ・石剣 ・片刃石斧 ・異形独鈷石 (小浜助三郎) |
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12 | 中井遺跡 | 大字山上字中井20 | 〃 | ・土器 ・独鈷石 ・その他縄文遺物(矢内栄次) |
大洞A’式の土器は当資料と伴出したものと思われる。 |
両遺跡とも中期前半の土器を出土し、ともに狭長な河谷平地の中に立地しており、遺跡の性格は不明確ではあるが、波及期の村落立地の問題上興味ある共通点を示している。