明治の古殿(No.2)

六 町村制の実施
憲法制定に先立って制定された市制、町村制明治21(1888)年4月17日は初めてわが国に近代的な地方制度を施行したものであり、府県制、郡制(明治23(1890)年)とともに維新以来幾度か変せんしてきた地方制度が一応整備されることとなった。
政府としては立憲政治の実施にそなえて、国民に慣れさせるためと近代文明国の体裁を整えるためであり、従って欧米の模倣的な面とあまくだり的官製的な性格 をもっていたが、自由民権運動の要求した地方自治案よりはるかに完備された形式を備えて成立した。先進国に伍していくために近代国家としての法制の整備が 要請され、今までの国内的白然発生的発展より飛躍して中央集権の補充的位置ではあったが白治制の基底である市町村は法制上公法人格の自治体として明確にされ市町村会の権限も大幅に拡大され、議員と市町村長の公選制が制限された形ではあるが地方白治が確立され、財政的にも予算制度をとり入れ近代的公財政が樹立された。
町村会議員の選挙、被選挙権は地租または直接国税2円以上の納入者であり、町村長、助役等は町村会で選出され、原則として名誉職であり、従って有資産者、地主等の有力者が多くその職についた。
新しい町村は新しい統一的な秩序と組織をもったもので、従来の村落とはことなり、又戸長役場区域のような数個の村落をまとめた連合体でもなかった。しかし村落の共同体としての秩序は温存しているから、これを町村内の行政区として区長をおき町村の事務の補助をさせることになった。従って区長は村落(旧村)に根をおき部落を越えて、新村の体制づくりに協力する立場となった。
町村制の実施(明治22(1889)年4月1日)により町村合併が行なわれ東白川郡には次の一町一二か村が誕生した。
一時新村名を「松山村」とする。
−明治22(1889)年の五ヵ村合併−
鎌田光雄氏保管の文書に、明治22(1889)年の五ヵ村合併の諮問案がある。
この合併諮問はもみにもんで、特に新村名の命名には七日七晩を要し、「一、本村名ハ合併村中大村名ヲ参互折衷セシモノナリ」と注記がある。諮問審議中には、古来竹貫郷十三ヵ村の名があるので、竹貫村を主張するものがあったが、竹貫は五村中論田につぐ。
号外
今般種々ノ甘言ヲ以テ竹貫村ト組合村ヲ謀ルモノ有之、其口実トス処、一ヶ年度ノ経費ノ七百余円ヲ減ルトカノ口実ヲ以テ誘導スルモノト相聞ク
右様の義甚ダ不都合ノ次第二有之、事実、減額ナドトハ経験上ノ至ラザル処ニシテ、組合村等ハ容易不成右様ノ事二心迷シ事不成シテ後二悔ルモ誤リナキ事二候ヘバ目下団体上不都合無之様区内二洩レナク御諭示相成度比段中進候也
官本村長代理

助役大久保小四郎
明治24(1891)年12月6日
第一区長 大竹芳之助殿

弱少貪困の村であるので、これはとり上げられず、最も大きな松川村の松と、山上村の山の字をとって、「松山村」としたが大久田が強硬に反対した。某 氏がふと、手習草紙に「伊勢和宮元」とあるのを例にあげ、竹貫一三ヶ村の総鎮守古殿八幡にちなんで、「宮本村の案」が新に提出されて、原案松山村を廃して、宮本村となり、竹貫村宮本村の二村に成立し施行された。
ところが、二村案に反対して、あくまでも一村としようとする一部の者は、経費の節約を第一義にとり上げて、竹貫・宮本組合村を提唱して運動を展開した。これに対して宮本村の首脳は徹底的に阻止しようとした一件の記録がある。
七 町村会
町村制の実施により、ここに新町村が発足し各村においては、村長、助役、収入役の三役が執行機関となり、決議機関として村会が設けられた。
八 郡制の制定と廃止
区会所が改められ郡役所ができ、官選郡長が任命されたことは前に述べたが、法制上明確になるのは明治23(1890)年5月郡制が制定されてからである。郡制によって 今まで単なる行政区画であった郡が公法人の自治団体となり、郡会、郡参事会をもつこととなった。その後大正10(1921)年郡制廃止の法律ができて大正12(1923)年4月1日限り郡制がなくなり、以後は単なる地理的区画の名称に過ぎなくなった。
九 地方制度の改革
昭和18(1943)年、国の戦争目的に仕えるため、国家行政の一環としての地方自治でなけれぱならないという理由で改正された。おもな改正点は、市町村長の指導的位置が確立され、市町村会の権限が縮少されたこと、又監督官庁の権限が拡大されたことである。
一〇 地方自治法の公布
新憲法はその第八章に「地方自治」に関する一章を設け、地方分権の強化と地方行政の民主化を目ざし、地方自治を保障した。そしてこの憲法の要請に応じて昭和22(1947)年4月17日「地方自治法」が公布された。以来今日まで度々改正が行なわれているが町村長の住民による選挙はこの時より始ったのである。
一一 町村合併促進法の公布と新町誕生
昭和28(1953)年9月1日、全国的に小規模町村の合併を計画的合理的に行ない、これにより町村の能力を充実し、その運営を合理的、能率的にし、地方自治の基盤を 強化するため、町村合併促進法が公布され、昭和31(1965)年9月末日までに、人口8,000人未満の小規模町村を合併し、全国約1万の町村を3分の1に減少する こととなった。これにより竹貫村、宮本村は再三の協議を経て昭和30(1955)年3月31日、人口7,720名の宮本村と人口3,597名の竹貫村が合体合併し、新たに人口1万1,317名の古殿村が誕生することになった。役場は大字山上字古殿15番地にあった旧宮本村役場を本庁、旧竹貫村役場を支所として開庁発足し た。
昭和32(1957)年4月1日町制施行が認められ「古殿村」を「古殿町」として町制を施行することとなった。役場は大字松川字桑原177番地に木造モルタル式二階建を新築、昭和32(1957)年6月20日移転し現在に至っている。
一二 字名、村名のおこり
現在本町には8つの大字がある。明治22(1889)年までの村である。中世の末には仙石には仙石権兵衛、田口には田口久蔵、竹貫には竹貫氏、鎌田には蒲田氏、松川には松川氏が住んでいたといわれる。村名と姓が一致する。
大久田、山上、論田のように山に入った村にはこの例がない。
明治22(1889)年以降の町村名については、町村合併により相当検討された。次に簡単に記してみる。

◎竹貫
竹貫は鷹貫ともかかれたとあるからタカヌキと呼ぶのが正しい。中世に竹貫氏が相当長期にわたって、この地を治め、又竹貫郷十三か村といわれ、竹貫はその親村であった。このような歴史的にも中心であった所の名をとられたのは当然である。
 
◎宮本
明治22(1889)年町村合併の折松川、大久田、諭田、山上それぞれ意見がちがい、自分達の住んでいる村名を引きあいに出し、又その一部をとろうとして、意見の一致 をみることができなかった。ところが村の中央にはこの地方で最も崇敬する郷社八幡神社がある。その位置はこの村にあるから宮の本であるということにより意見の統一により宮本とした。

◎古殿
昭和30(1955)年の町村合併には、新時代をあらわす新しい村名もでたが、八幡神社のある所が古殿である。
八幡神社は全村の郷社であるところから古殿が村名に選ばれた。
字名は土地と人間の関係において生れ、人間と全然関係のない土地には地名はない。人間は何らかの関係が土地との間に生じたとき、それを呼ぶ必要上地名をつける。その土地を利用することになると、そこの産物、利用する資源、その開発、所有、所有権の移動などの事情によって、その地名がつけられ、また改変される。例えば久保や窪はくぼ地につけられた地名であり、沢は湿地や谷につけられた地名である。その他水に関係のあるもの、開墾、市場、神社やお寺に関係のあるものがある。古殿町は山地なので山や川に関係のある地名や、植物に関係のある地名がおおい。

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