南北朝の古殿(竹貫氏の興亡)

第六節 竹貫氏の興亡
一 竹貫氏の勢威
古殿諸氏のうち、最も早く白川氏に属したのは、隣村鮫川の赤坂氏(一時蒲田村を兼領)で、続いて蒲田氏であった。応年11年の国人一揆契状にその名を連ねている松川氏や田口氏はどうなったのか、また、谷沢・坂路氏の運命を知る資料はない。ただ竹貫氏のみが、岩城氏に属して健在であった。
竹貫と富岡が所替えになるのは天正18(1590)年である。その前に富岡隆宗が竹貫城におったことを証する史料は他に見当たらないので、「岡部氏記」には問題がある
竹貫氏は、明徳(1390~1394)の頃三河四郎光貞がおり、代々竹貫三河守を襲名している。
天文(1451)の頃に広光・隆光がいる。天文20(1551)年の古殿若宮八幡宮の棟札には「大檀那源朝臣参川守広光、嫡家隆光、第二愛千代御三男神四郎」天文24(1555)年田口西光寺阿弥陀堂棟札には「源氏朝臣中務大輔重光」また文祿4(1595)年の同棟札には「源朝臣重光并宣光(又は家光か)次男□光、氏女、政光」と見える。
ニ 須賀川城合戦と竹貫氏
須賀川城主は二階堂氏の当主盛義がか没して、未亡人が孤城を守っていた。未亡人は政宗にとって実の叔母(父輝宗の妹)であるが、政宗は黒川城(会津)におって着々と須賀川城攻略を策し、二階堂の老臣おさそい、周囲の白川、石川、浅川、岩城と和平を約し、または服属させて須賀川城の孤立化をはかっていた。竹貫三河守重光を誘ったのもこの時であるかもしれない。
政宗の当面の攻撃目標は、南の佐竹義重で、すでに小田原城主北条氏照とも佐竹攻略の盟ができていた。攻撃は10月26日に火ぶたが切られた。
須賀川合戦は、保土原・矢部・守屋・浜尾らの重臣の叛にあって落城した。竹貫中務大輔とあるのは重光の子尚忠(家光)で、城下の栗谷沢で討死したようである。落城後に須賀川の遺臣や佐竹、竹貫の士、例えば水野氏などは、大里村の牛ケ城に籠ったことが、記録にある。
三 竹貫氏の末路
伊達政宗が竹貫三河守重光を招いたのは、会津・須賀川攻略以前であると「岩城志」は記している。政宗が一時会津と和し、その間に岩城、相馬を蚕食しようとして、竹貫氏に密使を送ったが、重光はこのことを岩城常隆にあきらかにして、岩城への恩顧に報いたという。
天正18(1590)年6月伊達政宗は、小田原の豊臣秀吉の下に降り、やがて「奥羽仕置」があり、石川と白川は、小田原不参のかどで所領を没収され、後辛うじて伊達一門になって遺名を伝えた。岩城常隆は石田三成の参陣催促状をうけた後、おくればせながら、竹貫・三坂・上遠野・植田らをひきつれて小田原に参陣したが、常隆は陣中で病がつのり、7月鎌倉星ヵ谷で病死した。それでも岩城氏はひとまず存続を許されたが、後、関ケ原不参のかどにより所領没収され、後に佐竹氏の家臣となり秋田に移った。
竹貫氏は岩城の陪臣といっても、かつては一方の旗頭であり、岩城老中の筆頭として小田原に行きながら、秀吉のこの「仕置」によって竹貫領を没収され、楢葉郡富岡城の城代になったと諸書に見える。「岩城志」によると、この際三河守重光は一族郎党を従え、さらに菩提寺龍台寺も伴った。現に富岡町に同名の寺がある。
重光は、後相馬との一戦に傷を負い、再び竹貫の旧領にかえり、名を左近と改めて、下山上村の中居に隠れ住み、某年8月29日死したという。山上村広覚寺の、竹貫十二代の墓地に「祥山吉公大禅定門八月二十九日」と刻した五輪塔が重光の墓所といわれる。
竹貫氏がなぜ所領を没収されたか。その時期はいつ、誰の手によってなされたかというと、「三蘆記」等の諸書には太閤秀吉によってとある。しかし竹貫氏は主君と仰ぐ岩城氏と共に小田原に参陣しており、岩城氏が所領安泰であったとすれば、その陪審である竹貫氏所領も安堵されたはずである。太閤の手により没収されたとは考えられない。その一証として、那須七将の一家といわれる「千本氏系譜」がある。これによると、千本義定が慶長6(1601)年辛丑6月20日、奥州岩城富岡に住する竹貫三河守追討のとき岩城におもむき、その功によって1,500石を加恩されたことが見える。これによっても、竹貫三河守重光は慶長6(1601)年まで健在で、その勇武は北関東にまで知れていたことが想像されよう。
古殿八幡宮の「慶長八年卯二月四日寄進状」には大関左衛門・太田原備前守の名が出、西光寺阿弥陀堂の慶長10(1605)年の棟札には「地頭太田原備前守」とあり、大関氏は黒羽の領主、備前守は太田原の領主でともに那須七騎の家柄である。「千本氏系譜」に見える事件と符合するものがあり、竹貫十三郷が一時那須一族により支配されたことは事実のようである。
また竹貫氏と所替になって、竹貫の新領主になったのは、岩城由隆の甥大和守宗隆で「岩城志」によると宗隆が竹貫城に移ったのは慶長7(1602)年5月8日であると記している。
これによると、竹貫・富岡両城主の交代は慶長6~7(1601~1602)年にあたる。慶長年間といえば既に太閤は没し、慶長5(1600)年関ケ原合戦が勃発し、その前後に東奥の地にも不穏の気がみなぎり、福島・最上・会津等各地に戦闘が行われていた。この際岩城氏は徳川家康の招きに応せず、慶長6(1601)年所領を没収されている。
竹貫氏が、那須一族から討伐されたとすれば、岩城氏と共に東軍に応ずることをよしとせず本意を貫いたためであろう。

竹貫の新領主大和守隆宗は、「磐城史料叢書」「岩城氏累代之伝記」によると、岩城氏没落後隆宗は上洛して家康にあい成瀬隼人正政成のとりなしで竹貫3,000石を新たに賜り、しばらく伏見城在番の上、慶長9年(1604)5月20日改めて竹貫へ入部した。当時竹貫城は一国一城令によって破却されていたので、横川に「神林館」を建てて住城とした。
大和守隆宗には男子が早世し女子のみであったので、那須七騎の大関土佐守増友の弟増忠を聟養子にしたが、増忠が事があって出奔してしまったが、一子庄松が誕生した。隆宗は慶長15(1610)年9月26日死去し、東禅寺殿天山道一大居士と号し東禅寺へ葬った。そこで幕府は竹貫で三千石を没収してしまったので遺子庄松2歳のとき家臣酒井主馬が補佐して江戸に上り家康に家名再興を訴え出た経緯が「岩城氏累代之伝記」に詳しく見える。結局は岩城氏竹貫氏再興がならず相馬家の客臣となった。岩城忠左衛門尉吉隆がこれである。
四 竹貫氏一族と家臣団
竹貫の宗家には代々幾人かの子弟がおり、他家をつき、仏門に入ったのもあろう。修験竹貫先達といわれる大膳院もそのひとつであるが、史料の上で竹貫の一族その子孫と称するものはわずかに一、ニあるのみである。
三河守重光は、富岡城代としてある時、相馬の一戦に傷を受けて竹貫に帰り、下山上村の中井に居住した。弟に将監重則というのがおり、これは中井に続く大竹に居住して大竹氏と称した。
竹貫氏の宿老に、矢吹・矢内・小野・岡部・佐川・窪木および水野氏がおり、このうち矢吹・箭内(矢内)・小野・岡部の四氏を竹貫四家老という。

〇水野氏
水野氏の子孫は今大久田にあるが、一族は散在して嫡流がどれかは定かでない。水野氏は竹貫氏の家臣というよりは一族のようである。水野氏は代々勘解由と通 称し、強弓の一家としてその武勇東奥にひびいていた。水野家の子孫は出羽国酒田(山形県)酒井家の老臣となったものがあったともいわれる。

〇岡部氏
竹貫四家のひとつに岡部氏がある。岩城志は、赤水龍子山記が「岡部氏記」引用して、天正2(1574)年伊達輝宗の竹貫城侵攻を考証しているが、この「岡部氏記」は同家の記録であろう(今はない)。

 〇矢内(箭内)氏
竹貫四家老の一家矢内氏についても伝える史料が少ない。古殿八幡宮神宝の中に、五輪の背旗がある。これに「矢内庄右衛門尉」と墨書されている。これについ て「岩城志」に「矢内庄右衛門の子孫今同村に在り、矢内甚五右衛門といえり」とある。現在、矢内栄ニ家に、岩城常隆が、水野大学・但馬両人に与えた感状が ある。このほかにニ、三の文書を伝えている。

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