歴史と文化(概要)

わたくしたちの古殿町は、縄文時代の出土品、古墳等により類推するにその沿革は3000~4000年前にのぼるといわれる。中世には竹貫氏、蒲田氏等の居城となり近世の初頭からは、藩領(天領)私領となって幾多領主の交替変革があって明治となった。
明治22(1889)年山上村、論田村、大久田村、松川村が合併し宮本村、竹貫村、田口村、鎌田村、仙石村が合併し竹貫村、昭和30(1955)年3月21日宮本村と竹貫村が合併して古殿村となり昭和32(1957)年町制を施行、古殿町となり現在に至る。常磐郡山新産業都市の中間地帯としての発展を期待し、その実現に努めている。
町名「古殿」は、町の中心地竹貫から東へおよそ2キロ、大平川にかかる朱塗りのらんかんのついた橋を渡ると目通り直径2メートルを越す大杉に囲まれた古殿八幡の社がある、竹貫郷十三カ村の総鎮守社として地域民より崇拝されている。庚平7(1064)年御冷泉天皇の御代、東北の地に阿部一族が乱を起した時、源頼義が一子八幡太郎義家を供に討伐の兵を進めた。戦い利あらず一時この地にあって再挙の機をうかがいはるかに石清水八幡宮に戦勝を祈願した。ほどなくみごと勝利をおさめたがこれを記念し、部下の福田次郎(石川氏の祖)に命じて石清水八幡をこの地に遷座しまいらせたといわれる。代々の領主が隠居入道し、修験となって八幡を守護、古記殿を館としていたのでこの地を古殿と呼ぶようになったという。このゆかりの名にあやかって古殿町と名づけられた。
古殿八幡に古くから伝わる「流鏑馬(やぶさめ)」の行事がある。狩り装束に身を固め鏑矢を背に弓を左手に持った三人の武士が疾走すろ馬上から一の矢、二の矢、三の矢をはなつ、この行事は無形文化財として保護され秋たけなわの十月の第二日曜日に毎年行なわれる。
竹貫、桑原、横川は最も人口が密集しており、町の商工業の中心地である。この地域を除いては、平らな耕地はほとんど見当らず、山また山が低くあるいは高くひしめきあっている。しかしどの山を見ても、よく手入れのゆきとどいた杉がすくすくと伸びて、みごとな林相をみせている。終戦の混迷期の中で黙々と植林を続けてきた先輩の努力が山林王国古殿町をつくりあげたのである。
わが町の山林総面積は12,400ヘクタールでそのうち杉その他の針葉樹林が約8,000ヘクタールを占めている。町当局も町営部分林を設定し、植林面積は140ヘクタールに及んでいる。このほか町には、小中7校を数えるが、どの学校も学校林をもっている。町は単に植林ばかりでなく、林道の整備に着手し、その総延長は30路線58,593mに及び森林の経済性をいっそう高めている。これらの杉が伐採期に達した時には町財政は豊かになることであろう。
町を横断している県道常磐石川線(通称御斉所街道)に沿って商店がひらけ市街地を形成している。竹貫、横川、大原の3地区には町内総商店の70パーセントがある。ほとんどの商店が家族経営であり町内の客を対象としている。工業については山林から豊富に生産される木材を原料とする製材会社があり町の工業の第一となっている。
学校数小学校6、中学校1、学校給食共同調理場を有し、食生活の改善、児童生徒の体位、体力の向上に努めている。
社会教育については、昭和40(1965)年11月3日優良公民館として文部大臣賞を受賞した、当時の館長渡辺幹男氏の「古机一コから公民館新築まで」の全日本社会教育連合会主催の研究発表の原稿にその苦労と社会教育の現状を知ることができる。公民館が10あり、それぞれ地域に密着した活動を続けている。
町の西北に県重要文化財指定の西光寺阿弥陀堂がある。御斉所街道の田口山下バス停留所で下車し山ふところに向って進むと部落の奥に伽藍が見える。これが臨済宗西光寺で本堂の前左手に東面して建つ堂が指定建造物である。宝形造り三間三面(間口奥行三間)の小堂で木像阿弥陀如来坐像は、高さ73センチの坐像で、檜材寄木造玉眼像漆箔が施されている。円勝ならびに同人作にかかる国指定重文の陽泉寺釈迦像とほぼ似ているといわれている。

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