竹買-仙石

その後大正二年の竹貫村課税台帳によると、宿九軒(内木賃二軒)料理店四軒、飲食店十軒、湯屋一軒、理髪業三軒と記載されている。
村全体の数字であるが大部分は竹貫に集結していたものと思われる。老人からの話しで知った往年の竹貫宿場の様子を私なりに夢語りで書き留めてみる。
・・・ 中堀の岸・・・中堀の岸の柳の若葉が眼にしみる頃肩荷で棒手振で御斉所街道を運んで来た初鰹の売り声が聞える・・・柳の根元に繋がれて餌を食べながら尻屋 で蝿を追払う馬車馬・・・繋石の脇で口を動かしながら休んでいる木炭を運んで来た赤牛・・・小料理屋の縄のれんを縫って聞える旅人の声・・・中堀で洗いものをしている 赤い襷(たすき)姿の娘さん等々。
稲荷神社の参道は駒ヶ城の大手門跡といわれ、商工会館の敷地は戸長役場-村役場-登記所となり現在に至っている。
又、参道入口脇には明治時代の里程標の角柱(尺二寸角、高十二尺と推定)が立っていたが道路改修工事の際取除かれている。

左に欅の大木、右に柳の古木に挟まれた橋が町入橋(石標ふるさとセンター保管)である。町とは竹貫郷十三ヶ村の親村と云われる意味から名付けられている。

町入橋を渡ると右手に昭和の中頃まであった「お定まんじゅう」が想出される。

道は今度は鉤の手に左に折れて国道と亀堂院の中間位のところを北上して上町、古町、立町、そして千足から田口境に出る。明治二十年の地籍によると宅地は竹貫の外は池の内一ケ所、新田ニケ所である。

千足には五枚橋、田口境の大網川には十枚橋が掛かっていた。正式の名称ではなく橋の板の数で呼んだ名称である。
田口境を北上して石畑地内の通称「中土手」を進む。田口小学校裏には廃寺となりその跡も明確でないが「松川山報音寺」があった。

勿来の大高にある天台宗大高寺の末寺である(町史上巻三一九頁)「寺前」の地名の語源であろう。浜井場より九龍川を遡り内畑に出る。右に折れると久保田、西作方面に通じる。
 
西光寺門前町の景観をしている久保田の集落を過ぎ門前川沿に登る山路は仙石木戸脇に通じ、俗称「ふる道」は久保田、西作の境を尾根伝いに登り仙石の叶神に通じる重要な道であった。

西光寺阿弥陀堂の屋根を右に見ながら旧道は山下満勝院跡の下を通って国道に交わる。国道は明治三十九年の耕地整理に伴い竹貫境より一直線になってい るが、竹貫の鈴木好治翁の話によると中土手の手前より関根乳業、アスター工業の裏を通り現状に近い国道に交わって高橋に続いていたという。

それは耕地整理で水田になった道跡は収穫時に稔が悪く道の形がはっきり浮出ていたと語ってくれた。

山下で大きく左折する国道は初期に鍋作寄りに改修され現在の形になっている。文化三年作成の田口地図によると九龍川は浜井場あたりより旧道添に又高橋より道路添に用水として東方に流されている。門前川は山下を経て鍋作、中居の問あたりから鮫川に注いでいる。

揚水ポンプが設置されている場所は小字名が「平館」で青柳の北上館の居館であろう。鍋作の裏山からの道は旧鎌田小学校に出る近道である。

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