中世の古殿文化(No.1)

第三章 古殿の中世文化

第一節 古殿文化の背景
古殿町の中世は、古代末に成立した石川氏の庶族が、各郷村に分立していた。鎌倉時代中ごろには宗家から離れ、独自の活動に入り、南北朝の争乱を契機として、蒲田・竹貫・田口・松川・仙石等の各氏が、それぞれ地方豪族の体制を整え、互に攻めあい、消長をくり返した。
古殿地方は、地理的条件から、山道(せんどう)と石城の中間に位置し、双方の文化圏が複合している。すなわち、三株遺跡の縄文土器には太平洋岸系の特色がみられ、滝平C遺跡の弥生文化も、鮫川・蛭田川をさかのぼっておよんだ形跡がある。ところが、宮前古墳などの古墳文化は阿武隈川流域の文化に属している。
東禅寺観音堂にある、聖観音立像は、白水阿弥陀堂の仏像と共通性があり、中世に造顕された西光寺阿弥陀坐像の如き、仏師乗円の作品は、県北地方に分布している同一の作者の手になったものである。
石川町谷地観音堂の千手観音のように、中央的な仏師の手になる彫法が行なわれているのもある。このように、古殿地方の原始.古代・中世の文化は、太平洋岸系と、阿武隈川流域系双方の要素をもちそれは中央文化(鎌倉)文化)の流れに竿していたのである。しかも狭少な河谷平野と、山間に入りこんだこの地方はいわば阿武隈高原の辺地であるに、以外に高い文化を維持していたことは、その背景に政治的要素を持ち出さなければ解釈し得ないものがある。
しからば一体古殿の中世文化の背景は何であったろうか、仏教文化の面からながめると、初期の真宗教団(一向宗)がこの地に芽生えて大きく発展し、臨済禅がおよび宋朝文化の仏像があり、本山派の修験竹貫先達が、白河先達、石川正年行事職から分離独立して、これに対抗している。神社信仰からみると、八幡・熊野信仰が主勢をしめ、流鏑馬や笠懸などの武家趣味が保存され、茶道が行なわれていた。これは当時の武将のたしなみであるから当然とはいえ、そのものずばりに中世の古殿文化は、この地に威を振っていた武士層、豪族の手になったことは明らかな事実である。
鎌倉・室町文化は武家文化であることは論をまつまでもなく、それは全国的に同じ傾向であるのに、この山間辺地の地方に高い文化が波及していた特殊事情は、領主層が、鎌倉幕府、ないしは関東管領と、密接な関係があったことはいくつかの例証があり、この点にしぼって考えると、中世の古殿文化は、鎌倉の政権を通じて、鎌倉の文化が直移入されていたことに、思いをいたすことができる。
石川氏宗家が北条氏と親戚関係にあり、その庶流である古殿各氏は鎌倉府に直接結びついている。さらに蒲田氏は足利尊氏の料所(直轄地)の預所をやり、室町初期には国衙領であり鎌倉に出仕していることは、赤坂文書が明示している。伝説的記録であるが、鎌倉嶽の十一面観音が鎌倉から嫁した姫様の念持仏であるといわれ、また田口の館は一名北条館といつて、北条時村の居城であるといわれ、西光寺が建長寺との関連があったことが寺伝に見えるのは、一見強引附会のきらいがあるが決して荒唐無稽な伝承ではなさそうである。
このように、予想外の高い中世文化に浴していた古殿地方が、近世初頭になって一挙に山間へき地の、未開の地帯に転落してしまったことは、戦国末の争乱にまきこまれて、戦火に包まれ、領主は没落し、耕地は人心と共に荒廃し、ついにはへき地人特有の閉鎖性がこうじて、伝承すら意識的に消し去ってしまったのに起因するのであろう。
第ニ節 如信上人大網遺跡奥の御坊
浄土真宗(一向宗)開祖、親鸞上人の孫、本願寺第二世如信は「奥の御坊」といわれ、原始真宗の布教活動を展開した本拠は、奥州白川郡大網の地とされている。この大網の所説については、真宗関係者・同研究家の間には定説がない。
古殿の大網説を近代になって取り上げたのは、昭和2(1927)年、近角常観が現地を踏査して説をなしたのにはじまる。
第三節  西光禅寺
古殿地方の密教系寺院は、鎌田の彦根寺や山上の東禅寺の前身とみられる同寺観音堂、田口西光寺の板碑、ならびに背後にある高山経塚等から推定される。
鎌倉時代中世に、禅宗がめざましく地方に進出するが、初期の禅宗は臨済禅であった。臨済は地方武士層の帰依を得て発展するが、この山間地に臨済宗が、西光・東禅・広覚の三ヶ寺もあることは、確かに奇異である。これも、田口・竹貫・松川および鎌田、仙石等の石川庶流が、鎌倉幕府ないしは、関東管領家等との関連を考えないでは解釈し得ないもので、いわゆる鎌倉文化の地方転移の現象とみてよかろう。
第四節 竜台寺と亀堂院
◎竜台寺
竹貫東館の山懐にある曹洞宗永平寺派、鳳棲山竜台寺も開創が明らかでないが、殿様の隠居寺であったと伝える。当寺の寛政12(1800)年の過去帳によると、竜台寺の開基は、竜台寺殿、その妻鳳棲院殿で、これが隠居した殿様夫妻であろう。開祖は尾張国の人惣持寺前住の雪森慶耳和尚で須賀川の名刹長祿寺の四門首の一人といわれている。時に文明(1479)11年にあたり、明応3(1494)年没するといわれる。

◎亀堂院
現在曹洞宗通幼派に属し、万歳山亀堂院という。もと鎌田の松岩山下にあった。寺歴「当山年鑑」によると、後柏原天皇の御宇、地頭竹貫三河守(本姓福田)忠光の次男、幼児仏門に入り、竜台寺即応を和尚について得度し、永正10(1513)年鎌田村松岩山下の極楽沢に草庵を結んだのにはじまり、父忠光を開基として、亀堂院と名付けて菩提をとむらったことになっており、弘治2(1556)年6月1日死とある。
江戸中期元禄10(1697)年に現辺川のほとりに移ったという。
第五節 広覚寺と東禅寺
◎広覚寺
古殿八幡宮の北裏山にある竹貫山広覚寺は妙心寺派の臨済宗で、本寺も開創は詳らかでなく、大平川ほとりの旧五輪平の地にあって、竹貫氏の菩提寺、境内に竹貫氏累代の五輪塔などがある。この中心をなす石造五輪塔は、宝珠をかくが、鎌倉末、室町初期頃のものである。寺伝によると、開創由緒は後光厳天皇文和年間、竹貫三河守広光公建立、相州円覚寺大覚寺禅師の法嗣無隠元晦の法孫、雲山智越禅師(円覚寺塔頭禪昌庵開基延文三年寂)の開山であるという。元禄年中西光寺らと共に妙心寺派になった。

◎東禅寺
大字山上字松久保にある天沢山東禅寺も、臨済宗妙心寺派の寺である。境内に地蔵堂と観音堂がある。観音堂は大同年間徳一開基という。これを見ると、当寺は、はじめ密教系の観音堂があり、東禅寺と改めたのはその後と推定される。当寺開山の法照月船については伝えるところがないが、広覚寺、西光寺とともに元禄年中妙心寺派に属しているが、嘉永5(1852)年の転住届によると、当時の住職が上洛し本山の花園妙心寺に上っていることが分かり、単なる山間の古寺でなかったことがわかる。

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