古殿両社(八幡神社、若宮八幡)

二 古殿八幡神社

二 古殿八幡神社
古殿八幡は石川郡古殿町大字山上字古殿にあって、昔は竹貫郷十三ヵ村の総鎮守社として地域民より崇拝されていた。
◎由緒
後冷泉天皇のみ代、康平7(1064)年阿倍貞任・宗任が乱を起し、源頼義が勅命により、これを討つとき、石清水八幡宮に戦勝を祈願し出陣した。さきに頼義より宣旨をうけた、この地の福田次郎、福田源大有光は部下とともに源頼義の軍に従い、幾多の戦功をたて貞任、宗貞の乱をしずめることができた。そのため福田次郎、福田源大有光は豪士と相談し、石清水八幡を古殿に遷座したものといわれている。
祭神は誉田別命で本神殿のご神体として、鋳鉄製の御正体一面が秘蔵されている。鏡面の中央に座像の如来像が蓮台の上に結跏跌座している。像は火災にあって、形状がはっきりしない、観音菩薩(さつ)かといわれる。
◎本殿の修造と沿革
別記によると八幡宮達立より古く領主福田四郎光祐は福田次郎頼遠の四男として竹貫郷を領し地名を冠して竹貫氏と称するようになった。竹貫氏は源頼義公の建立した神社なるをもって、古殿の社として崇敬し、代々の領主が隠居入道し、修験となり八幡を守護していた。古記殿が居館としていたので、この地を古殿という地名になったという。十三ヶ村の総鎮守と自然にあがめられるようになった。建久年間(1179年−1188年)将軍源頼朝より社領寄付される。天文18(1549)年の落雷により神社ならびに別当居宅まで焼失してしまった。
天文20(1551)年竹貫三河守広光は先証により社領山林にいたるまで、永楽五貫文の墨付をたまわった。
天文20(1551)年11月15日落雷によって焼失した。
永禄、天正、文禄、慶長に続いて領主による社廟の造営が行なわれ、同時に別当、社僧、社人などに屋敷などが建立されたようである。
慶長年間竹貫氏は岩城常隆の命によって、館を双葉郡富岡に移した。
慶長8(1603)年2月4日大関左門大田原備前守から、その昔崇敬した先例によって社領をたまわった。
同12年11月再度の墨付をいただいた。建久以来の祭事の例が廃せられて久しかったが、笠掛、競馬の神事領民の氏子当番の村のこと定め、毎年交替してこれにあたるようになった。
寛永年間、内藤豊前守が棚倉の領主となり寛永6(1609)年両社(八幡神社、若宮八幡)の造営を進める、同8年に領民に墨付を出してその仕事にあたる。両社の造営ごとに奉行に命じ、その当日代参させ棟札に姓名を記して永く天下泰平、武運長久、五穀成就、氏子の繁栄を祈願した。
享保年中、氏子の微力によって社殿造営中のところ、8月15日、大暴風雨になり、大水がでて、神社の境内が一面の川原となり、両社山、瑞籠例、笠掛の馬場など行なうところがなくなった。社僧、社人の坊舎にいたるまで、皆破損してしまった。なげいても天災なので、いかんともすることができないと当時の古殿八幡宮別当大善院竹貫祐義は記している。
境内摂社、若宮八幡神社については、祭神は、大鳥鷯命をまつり、祭日10月15日行なわれている。昔は領主の崇敬厚かったが天領となってからは特別のことがなくなった。
若宮正両八幡大神は康平5(1063)年鎮守府将軍源頼義公東夷
追討のとき逆徒強大にして、官軍一度利を失い、官兵この地に引取り給へず、帝都男山八幡に祈誓し遂に逆徒をたいじし、同7年当社を建立する、領主福田広光(竹貫郷を領したので竹貫氏と改正)、頼義公建立侯社となる。以て代々領主隠居入道して修験となり八幡を守護し、古記殿の居館となる故、今にいたりて地名が古殿と申し聞く、領主崇敬の神なるによって竹貫郷拾三ヵ村の鎮守となり、その後建久年中(1190年より9年間)鎌倉将軍頼朝卿より竹貫の領主に永楽五貫文の社領の寄附を命ぜられた笠掛流鏑馬の神事行来しところ天文年中(1532年より23年間)雷火ありて堂社并に別当居宅まで不残焼失し、書類等まですべて焼失せり、天文20(1551)年11月竹貫三河守殿に源御判の通り永楽五貫文の墨附同年同月15日再建の検査を起し給う。天正20(1592)年己3月3日(文禄元年)竹貫重光公より墨附下さる。文禄5年6月10日(慶長元年1596年)竹貫隆宗公より墨附下さる。その時の領主より別当、社僧、社人の屋敷等寄附下さる其偽竹貫領主を岩坪の領主常隆に随へ宮岡に居館を移せしにより慶長8年(1603)2月4日大関左門殿、大田原備前守殿両侯が其の昔崇敬せしにより社領を給う。
同12年12月6日別当より社中に下知状を下され、其後寛永年中(1624年より20年間)内藤豊前守殿棚倉の領主に相成此の地を領せしにつき同6年5月7日造栄同7年12月2日社中に造栄の下知状を下すあわせて祭礼の度毎に其の当日代参有り候、その後御料を竹貫郷拾三ヵ村とし、毎年参ヵ村あて当番を定める。9月6日から9日までを天下泰平五穀成就の祭礼とす。以上
右者今般王政御一親につき由来御尋につき申し奉り候 以上
明治3年(1870)5月
御支配所役所
(国内神社御改書上帳より)
磐城国白川郡山上村之内下山上
八幡神社
竹貫祐道

四 鎌田八幡神社

◎位置
鎌田字長光地石関山にあり、境内は71坪の官有地である。
神殿、雨覆、鳥居(1基)石階(巾1間21段)からなり杉欝蒼としておったが、今は一、二樹を残すのみである。
◎由緒
祭神は誉田別命をまつる、策70代後冷泉天皇の天喜2(1054)年8月15日八幡太郎義家が、安倍貞任を追討の折、ここに陣小屋を建てられたという。後その跡を石関山八幡と号し崇め奉る、第82代後鳥羽天皇の文治4(1188)年竹貫北山城に居住した、領主竹貫源次郎光清相州鎌倉、鶴岡八幡官を奉遷勧請し、社殿を造営したというが、竹貫氏ではなく満田氏であろう。
氏子戸数は鎌田60戸、氏子の負担及び寄付金で維持している。
◎社有財産
文治4(1188)年石川氏より、除地反別1反15歩の寄付があったが、維新後上地になり、明治13(1880)年に鎌田村から金10円の寄付があった。祭日は8月15日で新嘗祭、祈年祭が行なわれている。
神官は明治12(1879)年頃より矢吹守葉之助であったがその後は芳賀等(ひとし)がつとめていた。
◎鎌田八幡の供養石塔
八幡神社入口、鳥居の傍にあった。高さ約97センチ。今は八幡神社左下方、火の見櫓傍に近時新設した台石の上に建つ。頭部は山形、二条の刻線があって頭部がつき出し、基部も一つの石から造り出し、中央の磨いた面に大きく金剛界大月如来の種子(梵字)が刻まれ、その下中央に「嘉暦元年4月8日」と年号が刻まれている。
もと境内付近にあった地蔵堂に、石地蔵と共にあったので、誤って「嘉暦地蔵」といわれていたが、地蔵ではなく大日如来の供養石塔である。古くから知られ、白川楽翁が命じて編纂された白川古事考にも載っている。
鎌田は別に蒲田とも綴り、白川文書の足利尊氏の袖判のある建武2年の状に「蒲田五郎太郎」の名が見える。
石川氏の支族でその居城は当八幡神社の対岸山上にある。蒲田城である当社は同氏の崇敬の厚い古社で、同様の供養石塔は近くの「松岩山」にもあり、鎌田氏ゆかりの塔婆で、かつ典型的な奥州型板碑として貴重である。

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