明治の古殿(No.1)

第一章 町の政治と行政の変化

第一節 古殿町の変遷
大政奉還(1867年−慶応3年−10月14日)、王政復古(同年12月9日)により新政権が樹立され、明治天皇親し く百官公卿。大名を率いて新しくできた朝廷の政府による政治の方針を誓われた五カ条の御誓文(ごせいもん)(1868年−明治元年−3月14日)と着々維 新の大業はすすめられていったが、徳川幕府家臣団と新政府による鳥羽伏見の戦い(1868年1月)・彰義隊の戦い(同年5月)・会津の戦い・五稜郭(ごりょうかく)の戦い(1869年5月)と戊辰戦争が続き、行政関係の制度機関が整備するにはかなりの年月を要し、明治23年に至りほぼ現在の形に整備されることになるのである。次に行政区等の変遷の大要を年次を追ってながめてみよう。
一 廃藩置県前後(明治5(1872)年3月頃まで)
1867年12月王政は復古され、明治新政府は成立したが、地方の政治は旧幕府以来の白治制が踏襲され、従来の藩主による政治がおこなわれた。すなわちわたくしたちの町古殿のうち、仙石、山上、論田は小見川藩(下総)鎌田、田口、竹貫、大久田、上松川、下松川は黒羽藩(棚倉領であったが棚倉藩主が会津の戦 いで会津勢に加盟し新政府軍に破れ、その領地は黒羽藩預りとなったが明治2(1869)年3月棚倉藩に返された)によって治められた。

1869年(明治2年6月)版籍奉還により各藩の領地は朝廷に返上し、改めて朝廷より従来の藩主が藩知事を命ぜられ各藩の政治が行なわれた。また各村(現在の大字)には名主、庄屋、年寄あるいは庄屋、組頭、百姓代(棚倉領の例による)等の役職があった。
明治2(1869)年6月民政局の設置にともない町役所を市政局と、郡方役所は郡務局、御作事役所は営繕局、御代官所は郡督察、郡奉行は郡宰、郡方頭取は郡邑簿長、御代官は郡督、郡方帳役は郡邑簿生と改称され、現在の東白川郡は西郷(棚倉外35ヵ村)、南郷(台宿村外十九ヵ村)、東郷(塙村外十九ヵ村)、北郷(赤坂西 野外十四ヵ村−現在の鮫川村と古殿町)の4郷に分けられ、毎村に庄屋、毎郷に郡督(旧代官)1名が置かれた。明治4(1871)年になり各村の役職名は村長肝煎(きもいり)、組頭(くみがしら)と改称された。

1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行なわれ、棚倉藩は棚倉県に、小見川藩は小見川県となり(全国は3府302県)同年11月には、全 国の各県合併にともない棚倉県、小見川県は、松川県、中村県、三春県、平県、泉県、湯長谷県、笠間県、名古曾県とともに平県となり(現在の福島果は二本松 県、平県、若松県の3県に分かれていた。全国は3府72県)11月29日には平県は磐前県と改称された。また1872年(明治5年)3月12日には石川、東白川の2郡を併せ、現在の棚倉小学校所在地にあった明治2(1869)年新築の市政局を磐前県支庁にあて2郡の事務を総括した。
二 大区・小区制の実施
このように上部の行政機構が整備されるとともに下部機構も改革され明治5(1872)年5月にには太政官布告第117号により行政区画を大区小区とする制度ができ、東白川郡は石川郡とともに第五大区となり、この中に9の小区を設けた。
大区に戸長を小区には副戸長をおき、戸長、副戸長は、明治4(1871)年4月太政官布告による戸籍法の施行に伴なう戸数、人口の増減等の戸籍事務を処理することとなった。ここに従来の名主、庄屋、年寄等は廃止されることになった。
明 治6(1873)年7月には棚倉支庁を廃し磐前県の直轄となり明治7(1874)年9月には東白川郡を5小区に分け棚倉に会所(事務所)をおいて正副区長は全部の事務を総括し、戸長は会所に勤務して各受持区の事務を処理することとなった。なお各村には用掛があり戸長と住民との連絡事務を行なっていた。
三 福島県の誕生
明治9年(1876年)8月21日、磐前県は若松県とともに福島県に合併、現在の福島県が誕生することとなった。当時の長官は旧福島県参事山吉盛典であった。(明治11年(1878年)7月県令となる。)そして、区や村の役はそのまま奉職し、諸事取り扱いは当分、旧県の仕方によった。しかし3県合併により、県も広域となったため、従来 の大小区制を廃し、全県を26区に分け、1区に一つの会所を置いた。明治9年(1876年)12月18日のことである。
四 第十八区時代
現在の東白川郡は第十八区となり、会所を棚倉に置き、区長に全区の事務を総括させ、戸長にはこれを助けさせ、副戸長には区内の諸務を分掌させた。また各村 に用掛があって、布告、布達をうけ、その旨を什長によく説明し村内の庶務を掌った。什長は十戸の長として、組内の家庭に布告、布達をよく教え、貢金を集め たり、組内の諸願、伺、届に連印することをした。
これらの役をつとめる人は小さな事でも白分で専断することは許されなかった。各区には、その区の施政について定めた「郡治職制」・「郡治事務章程」および 「新区取扱心得」が布達されてありこれに従って区長は各般の庶務をまとめ、人民の戸数を整え、人口、戸数、兵丁を調査し、地籍を詳明し、一々果庁に報告し ていた。現在県庁には明治初年以来の文書の一部がおよそ4,000冊整理保存されている。
五 東白川郡役所設置
全国にわたってさかんに起った自由民権運動は、政府に地方行政に対するあり方を反省させる結果となり、地方行政の基本構造を指示した大久保利通の上申書に 基づいて「郡区町村編成法」「府県会規則」および「地方税規則」からなるいわゆる地方三新法が明治11(1878)年に成立し、7月22日頒布され、郡 区町村編成法により、郡役所を棚倉に設置し、町村数92、戸数4,692、人口23,723名の東白川郡が誕生した。
明治12(1879)年1月27日郡区改正白川郡に東の一字を冠記し東白川郡と称し(白河郡は西白河郡ということになった。)同年2月24日郡内に27戸長役場を置く ことになった。戸長選挙法は明治11(1878)年10月22日布達され、戸長はその町村人民よりなるべく公選し知事が辞令を渡すことになっていた。また地方民令の最初であり当時最も民主的な福島民会規則が明治9年より創定し、明治10(1877)年にはできていく。また東白川郡にも後の郡議会にも当る修道会と称する会が明治10(1877)年8月12日より開かれ、五か条のご誓文に則る民主的な政治を進める会として、発展していった。「郡区町村編成法」によって大小区の重複を省き、官僚機構 の末端である郡長の権限は強化され、他方町村は自治的団体であると同時に問接的には中央集権化に協力統制される状態におかれていたが、じゅうぶん掌握する までにはいかなかった。特に福島県では有名な福島事件により河野広中を投獄する等のこともあり、明治17(1884)年には「区町村編成法」は根本的に改正されること となった。

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