近世の古殿(庶民文化と宗教)

第四編 近世の古殿

第ニ章 近世の政治と農民経済の変化

第一節 御触れ書と農民生活
一 御触れ書
江戸幕府の成文法は、法度条目といわれる。このほかに老中が将軍の裁決をうけて、目付・三奉行その他各方面に配布した法令・規則は一括して御触書という。 諸藩もこれにならって、必要に応じて各郷の村々に伝達させた。その際特定の関係官庁または関係者にのみ通達する文書を「御達(おたっし)」という。従って 「御触書」というのは、比較的広く、一般に触れるものを指している。
八代将軍吉宗以来、これらの御触書を収集編さんすることが行われているので、当地方に流布しているのはすべて網羅されている。
七 地芝居、手踊禁止
文化8(1811 )年寺11月西代官十禁の制をうけて隣接私領御料代表が協議した「御料私領申合民風御改正申渡書」に「一、買芝居角力並祭礼之節子供踊之儀、陣屋下並 他国より集候程之市場前に仕来有之候所には、一ヵ年ニ一度は豊熟之年柄ニ寄可申出候外、村々ニては決て不相成候事。」とある。
この規定に違反して問題となったことがある。嘉永6(1859)年古殿八幡の祭礼であった。
古殿両社八幡祭礼の件は、氏子である上松川村の若者が、法楽神楽の真似ごとをし、ついでに尻尾踊をやったが、ついでに和唐内鳥さし舞をやった。これは地芝居に類するものとして咎められた。ところがこれは従前から祭礼にやっているもので、他に棒の手や大念仏などをやる習である旨、若者共・神官・氏子村中の氏 子村中の村役人が陳謝し、竹貫郷十三カ村の総鎮守の豊年祭であることを強調して事なきを得た。
これより先、天保12(1841)年8月4日に、仙石村の鎮守湯殿山権現の祭礼に、地芝居を興行したうわさがあり、塙表より申達があった。そこで仙石御役所が取調べると、祭礼当日若衆の者共通りかかった獅子舞を頼んで一日中獅子舞をやり、尻尾踊をさせ、そのあと手拍子踊をやらせた事が判明し、村役人は代表の村役人は代 表の6名の者を手鎖とし、宿預りに処した旨仙石御役所に報告している。
安政2(1855)年4月の同祭礼には、法楽として村内の若衆がササラ舞(獅子舞)をやっているがこれは問題になっていなかった。
第六節 江戸時代の宗教
幕藩体制が固まった江戸幕府では、仏教統制と、一般的に広まりつつあった神祇崇拝の恩潮をたくみに利用して宗教政策を進めた。
まず仏教では、寛文6(1666)年に、二種の「諸宗法度」示して、本末制度、檀家制度を樹立して、政治権力への服属と教団機構の集権的形成に成功し、一 般百姓を寺請制度にくみ入れ、宗旨人別帳の施行によって戸籍制度を確立して、逃散をふせぎ、キリシタン禁制の実をあげた。
神社神道については、消極的ではあるが保護政策をとり、神社を幕藩機構力の中に懐柔包含した。行政機関としては、寛永11(1634)年に寺社奉行を設置して、社寺お よび社有領の人民の訴訟審理、非違を督視し、神祇官の所轄の下に、白川伯家、吉田家をもって一切の社務を取締らせ、寛文6(1666)年には「諸宗法度」と呼応して 「諸社祢宜神主法度」を制定した。
一方庶民においては、秩序が安定してくると古いものがよみがえって、祭祀儀式が復活し、都市農村を問わず祭礼行事が盛んになり、春秋2回の鎮守祭の行事として、神楽、相撲、芝居、獅子舞、花火などの余興が行われ、若衆の気分のはけ口となり、レクリエーションとして郷土的団結が鎮守の神を中心として行われ、地方的生活意識を発達させた。
古殿八幡の秋季大祭における、流鏑馬・笠懸祭りは、こうした時代背景をもって中世的な、領主の祭祀権が、竹貫郷十三ケ村の総鎮守として旧慣が墨守され、これが竹貫郷の地縁的結束を強くした。
さらに地方にある無名の祠や、路傍の石神、石仏に対する民間信仰が、幕末になって民衆の宗教として侮りがたい浸透をみせ、その信仰の裏には中世的な山伏(修験)、口よせ巫女の呪術、祈祷が、現世利益の要求に応えて民衆に食い込んでいったことも見逃し得ない。
2古殿両社八幡宮と別当大善院
明暦2(1666)年の証文によると、当社は竹貫鶴岡御八幡と記している。鎌倉鶴ケ岡八幡を奉遷したのでかく称したのであろうが、通常は古殿両社八幡と言っている。両社とは、本社の古殿八幡と、相殿の若宮八幡を併称しての名称である。
古殿八幡の祭礼の際の法楽(笠懸・流鏑馬の神奉)の古礼神殿における祈祷の古法が後なって大きな事件になるので「文政12(1829)年古殿八幡宮再興願」の該当欄を提示する。
「毎年九月六日より竹貫惣郷より三ケ村宛年番ニ相当り、壱ケ村より役者壱人神事役馬四疋宛、籠所え一同相詰、別火行法仕、笠掛流鏑馬之儀者同八日宵祭礼、同九日当日祭礼、両日之神事毎年無懈怠修行仕候」とあり、この古法が中世から続いていた。
幕末になり、寺西代官の十禁の制もあって風俗改正険約令が出され、各村の祭礼、寄合など停止されたが、古殿八幡もその例にもれず、安政6(1859)午年に停止され た。停止といっても事実上の中止ではなく、流鏑馬のごとき大行事はとりやめて内々の祭りはやっていたようである。慶応2(1866)年も祭礼停止であったので、3卯年には挙行したいと、昨年の年番であった田口・竹貫両村の村役人が塙代官所に出頭して祭礼停止の御免を願い出た。それは、竹貫の龍台寺薬師堂の祭礼が大々的に行われ、旗を立て御輿も出たのであるが、十三ケ村総鎮守で、支配は塙・仙石両役所にまたがるので塙代官所のみでは処理できないとして不許可となり、内祭として秘素(質素の意)に行ない、法楽(神楽)を頼まれた村にのみ参詣させ、旗幟は立てず、物静かに施行せよという達であった。

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