中世の古殿文化(No.2)

第六節 古殿八幡宮
町名の起源となった古殿八幡宮は大字山上字古殿にあって、若宮八幡と相殿になっている。縁起書には、竹貫氏の祖福田氏が康平年間石清水八幡を勧請したことは、他の八幡と同巧であるが、社歴には建久年間源頼朝が社領として永五貫文の地を寄進した等の故事が記されているが、永銭とは永楽銭であるから、時代錯誤も甚だしいものである。しかし竹貫郷十三ヶ村の総鎮守として、領主竹貫氏ならびに郷民から祟敬されたことは事実、それを示す中世文書も現存している。
本社に鉄製の御正体(みしょうたい)がある。阿弥陀とみられる坐像の如来像が浮彫りされている。
本社で特筆されるべきものは、秋の祭礼に中世風な、流鏑馬(やぶさめ)と笠懸(けさがけ)があり、昔は犬追物もやったといわれ、神社前の水田が、その遺跡であるといわれる。
境内には、若宮八幡があり、併せて「両社八幡」と通称する。他に厩舎、篭堂、絵馬堂、仁王門・別当館大善院(現神官宅)、流鏑馬の道場門がある。別当大善院は本山派の修験で、竹貫先達といわれる。
八幡宮本殿は一間社流造りで、若宮八幡とほぼ同じ手法で、和様を主とし唐様が加味されている。仁王門は手法が異なる。仁王門に別当大善院の本尊医王如来坐像(薬師如来)があり、銘文に「奉再造医王如来尊像 維時延宝甲寅歳夘月中旬 本願別当竹貫大善院金剛堅者也 仏師運慶之末流 京都之住 井上清右衛門作 之」とある。
神主竹貫家は大善院の後で、庭園が立派である。同家に古棟札や古文書を数多く蔵している。
第七節 竹貫別当大善院
一 竹貫別当
山伏(やまぶし)は、修験者(しゅげんしゃ)とも言って、中世までは山臥の文字を記している。文字通り山間を駆け巡って、いわゆる難行苦行の修行を積み、そこで体得した不思議な法力を・呪力を持って、里人・檀那のため「アブラウンケンソワカ」などの真言呪法を中心とする祈祷を行い、領主層の帰依をうけ、庶民から畏敬された。その独特のスタイルを持って諸国の高山秀峰に登って修行する験者(けんざ)のことで、彼らが信奉する大和葛城山の役小角(えんのおづぬ)を敬慕し、大峰山、吉野金峯山、熊野三山を本山として入峯行をつんだ。
ニ 国峯鎌倉岳
鎌倉岳は竹貫、松河、山上村の南にそびえる、標高670メートルの山で、重畳たる岩山がたくみに曲折、凹凸する特殊な地形をもつ奇峯で、山頂には、塞河原・乙女森など六峯からなり、遠くから望遠できる。南に続く尾根をたどると三株山、御斉所山の嶮に続く。御斉所山は北は鮫川の深い懸崖で、山頂に菊田別当浄月院、岩崎別当大宝院の奥宮といわれる御斉所熊野神社があり、菊田・岩崎の国峯て、この一連の峻峯が、白河・石川・石城修験の行事として、山伏の徒の霊場とされており、鎌倉岳の7合目の岩場には、十一面観音がある。
登山口は五口あって、直下の荷市場からは最も近いが、最も嶮岨な岩場を登ることとなる。鎌倉岳の別当はこの荷市場にあったのだろう。ここには松尾神社(永倉神社)、諏訪神社、御霊社などがあるが、当初の竹貫別当はこの荷市場にあって、鎌倉岳の国峯を支配し、古殿八幡、御斉所熊野山との関連を維持していたものと推定される。
三 古殿八幡別当大善院
竹貫別当が大善院(大膳院とも)と号するようになったのは、天正7(1579)年からのようで、権少僧都になった時の補任状に「大善坊」とあるのが始見である。
第八節 古殿の石造塔婆(板碑)
板碑いわれる石造の供養塔婆は、上部に梵字の種子や仏像を表わし、下部の中央に年紀、左右に願文・偈文・願主名などを刻んだもので、死者の菩提のため、または両親あるいは願主自らの逆修供養のため造られた。
古殿町の狭い耕地帯にも、この地方に発達した板碑文化が伸びてきて、数多く分布している。
松川荷市場の12、13は自然石であるが、他は頭部を三角形に切り、額部、基部が突き出た、本格的な板石塔婆の形式を持っている。石質の関係から関東の青石塔婆よりは厚い、いわゆる奥羽型である。
このうち西光寺の墓地から発掘されたものは製作がていねいで、美しい形式を備えている。
広覚寺の五輪塔は上部の宝珠をかくが、刻まれた梵字「ラ」字は鎌倉期様の力強いものがある。五輪塔は墓標であるが、板碑は供養塔である。
市神の碑といわれる12号塔は、碑面を詳細に検すると、「市神」等の現文字は新しく、中央上部に種子、「市神」の字として重複して「元応元大才己未□月□日」とかすかに旧銘が見える。中世の古い板碑に、後世市神等を追刻したことがわかる。荷市場(にいちば)という地名が何時から行われたかは不詳であるが、称呼からみると中世的であり、この地が旧松尾神社(現永倉神社)に近く、また、松川・横川の旧館もこの付近と考えられるので六斉市場が古くからあって、たまたまこの板碑が発見されて、これを市神碑とみたてたのであろう。
第九節 中世の美術工芸
◎建築
古建築は遺るものではない。古殿八幡の今の流造りの社殿は、享保18(1733)年、若宮八幡は同12(1727)年頃の建立で、天宝13(1842)年頃に両社に雨覆がかけられた。仁王門も享保2(1717)年頃のものと思われるが、宮司宅には若宮八幡の天文20(1551)年再建の棟札がある。横川の鎌田氏(前永倉神社神官)には、永禄11(1568)年元和10(1624 )年の松川鎮守松尾神社の棟札があるが、式内社永倉神社と称する現在の宮は同じく享保3(1718) 年の再建のようである。

◎生活文化
戦国争乱期の武士といっても、各様態の生活で領主層は別としても、郎党のたぐいは常時農耕して、事あれば刀槍を持ってやせ馬にまたがって戦場に出るのであるから、生活そのものは一般百姓とそう相違があったものではない。それでも鎮守八幡の祭礼には、役者として流鏑馬に技を競い、笠懸で馬を馳けていたのである。流鏑馬のし方も、鎌倉八幡におけるそれではなく、背に赤子の人形を負うような地方化したものであった。
没落した領主竹貫権大夫が故郷を捨てて江戸に登るに際し、遺愛の茶釜と茶器を小太刀に添えて形見に残した際の護り状に、「正月三日のみ茶を喫し、他は吉祥の時のみ用い、その余は遣うべからず」と書き記したことによっても、茶道を身につけたとはいえ、その程度であったのである。年に一、二度の喫茶では鉄釜に赤いさびが生じて、破損するのは当然であり、長く使用した茶せんがすり切れても、補うことができないのが、当時の武士のたしなみであったのである。

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