古代の古殿

第一章 古代の古殿

第一節 古墳とその時代
古墳とは、高く土を盛り上げてつくられた塚墓(高塚古墳)、または山腹に横に穴をうがってつくられた崖墓(横穴古墳)を指すもので、その形状や出土する副葬品等によって、当町の政治・経済・文化の概略を推定することができる。
本県に伝えられた古墳文化の経路は大きく分けて3つの流れがあるとされる。ひとつは畿内から東山道を経由して北関東に入り、毛野の国(群馬・栃木県)に栄 え、陸奥の境を越えて本県中通り地方に入り、一部は会津におよんでおり、次は北陸道から出羽地方に進んだ文化の一つは、阿賀川をさかのぼり、会津におよん だ形跡がある。もう一つは東海道を東に進み南関東に栄え、常陸(茨城県)を経て本県の海岸地帯にはいり、その一部は分かれて久慈川から、塙・浅川を経て阿 武隈川東岸に進んだものがある。当地方におよんだ古墳は後者で、石川地方に分布した一派が、川をさかのぼり河成平野を東に進み、狭い平野の北岸や、山地の 中腹に南面して営まれた。
この地方の古墳はすでに発掘されているが、後期の横穴式石室を有する小円墳で、大字鎌田字発木内からは直刀が出土している。大字山上字宮前の、宮前古墳群 出土の副葬品は東京国立博物館にあり、石室もほぼ旧態を残しており、本町におよんだ後期古墳の姿をしのぶことができる。
第ニ節 郡郷制と古殿
4世紀中ごろから5世紀ごろを記述したものといわれる『先代旧事本紀』(旧事本紀または旧事紀ともいう)の『国造本紀』に、本県の国造が出ている。それによると、当地方は『白河国造』の統治下であったとされる。
実は「国造本記」は10世紀前半に成立したものと解されるが、編さんに際しては古い伝承や史料にもとづいているようで、本県の国造の成立はすくなくとも5世紀もしくは6世紀をあまり下らない時期とされる。
白河国造が5世紀末には成立したとすると、会津大塚山古墳は4世紀末とされるから、古墳文化の中期に当たり、後期古墳は県内には各地分布している。
鎌田や山上にある横穴式石室を有する古墳はこの後期古墳にあたり、少なくとも7世紀から8世紀にかけての時代には、すでにこの地方に多くの人々が住み、これを治めた首長が存在していたことを証するものである。
大化の改新の完成形態である律令制度が次第に整備され、大宝律令が完成したころには、陸奥国の北限は、出羽国が分かれ、養老2年(718)には本県と宮城 県の一郡が陸奥国から分離し、石城国・石背国(いわせのくにと読む。一部にいわしろと読むとする説もある)という新国名を名のる二つの国が独立誕生した。
当地方は石背国の一部に編入されたものと考えられるが、石城国とも接して、原始時代からそうであったように、石城文化もこの地方におよんでいたことは想像のみではなかろう。
石城・石背の二国は数年で廃止されて、再び陸奥国になった。
律令制下の地方行政は、国、郡(こおり)、里(さと)にわかれ、里は後に郷とよばれ、郡には、郡司、里には里長(さとおさ)がおって、50戸の住民を管理 していた。郡には規模によって、大・上・中・下・小郡の五段階があって、二里以上を小郡、四里以上を下郡、八里以上を中郡、21里以上を上郡、16里以上 を大郡と称した。
白河国造の治下は、大略白河郡となり、この地方は白河郡に属した。『和名類聚妙』(和名抄)という、10世紀前半に編さんされた本には、大村・丹波・松 田・入野・鹿田・石川・長田・白川・小野・駅家・松戸・小田・藤田・屋代・常世・高野・依上と一七の郷名があるので、白河郡は大郡であり、郡司がおった郡 衙(郡家.郡院ともいう)は白川郷にあったのであろう。
和名抄の注記によると、入野・常世・高野・依上の四郷は別に高野郡を編成して、白河郡から分離する。常世郷は塙町の常世地方で、石川郷はその名の示すように石川町附近、後の石川庄になる。
藤田郷は石川町野木沢の中野に「藤田城跡」があり、母畑・泉・須釜あたり、長田郷は蓬田の永田がその遺名といわれると、中谷・蓬田地方に当たることになる。そうするとわが古殿町は鹿田郷とするほかはなくなる。
第三節 藤原文化の片鱗
後世竹貫十三郷といわれた古殿町が、古代の鹿田郷であるという積極的証左はない。諸郷の配置からの推定にすぎないが否定する材料もない。とにかく白河郡鹿田郷はそれ以降史料にも表れず、何時の時代まで存続して消去したかも知るよしがない。
第四節 石川庄の成立と竹貫
『尊卑分脈』によると、石川氏は清和天皇の孫経基王の長子源満仲を遠祖とし、その孫頼遠河内国石川郡などを領し、その地の石川庄に住んだ。永承7年 (1052)前九年の役に源頼義に従って陸奥国に下り、安倍貞任と戦って討ち死にし、父と共に従軍した有光は奥州石川の地をを与えられ、はじめ藤田城に住 んだ。
『石川系図』『石川氏一千年史』『石川郡誌』など石川氏関係の古記には信のおけないものもあるが、古殿町の一部『竹貫』が石川庄の一部として、石川氏の勢力下に入っていたという石川系図を否定する必要もなかろう。
白河郡鹿田郷は、いくつかの部落に分かれて成長していたが、律令制の崩壊と共に何時のころからか石川庄に組み換えられて川尻郷と変わり、その一部の竹貫に 石川氏の支族が居館を構えて、新たな開発が行われ、文化的にも、白河・石川地方の阿武隈流域文化と石城文化が波及していたのである。

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