南北朝の古殿

第三節 南北朝動乱下の古殿
一 蒲田氏の活躍
源氏の流れをくみ北条氏と密接な関係にあった石川氏は仙道の名家として知られていた。惣領六郎時光は、元弘3(1333)年上洛して新政府に参加し、翌年の鎌倉攻にも参加したという。

 ニ 石川氏北党、南党に分かれて争う
常陸(茨城県)に上陸して関城に入城した南党の北畠親房は、精力的に南党の再建に力をつくし、南奥州の諸豪に呼びかけた。まず白河の結城親朝(宗広の長子)を介して石川一族に誘降をすすめた。

三 石川一族北党に屈す
北畠顕家の率える南党による国府の回復は失敗に終わり、奥州・常陸南党の勢いは振るわなくなった。その上南党の中心であった結城親朝は、北畠親房から、父宗広の忠誠、兄親光の壮絶な最期を賞誉されても起属を明らかにしなかったが、とうとう常陸南党の據点関、大宝両城が陥落する5カ月後にひかえた1343(康永2興国4)年6月北党に服し、前後して石川の南党もこれになっらたようである。

四 宇津峰城攻撃と蒲田氏
宇津峰は一名埋峯ともつづり、標高876.8メートル高原状の阿武隈山系ではぬきんじた山で、谷深く山頂は岩石がつらなる自然の要塞で、田村氏および修験の田村大元神社別当の衆徒が強力に支援し、石川の一族中にも陰に南党に手をさしのべているものもあったようである。これに対して北党は鉾衝城(長沼)稲村城(須賀川)部谷田(日和田)五百川城(高倉城)それに白川城を根拠として、次第に包囲陣を縮めた。
文和元年(観応3年1352)4月北党はまず日和田や、笹川城などに集結を令し6月には諸軍が配置につき、7月3日に田村郡唐久野、三世田(御代田郡山市)六日市庭(須賀川市川東)で矢合わせがあり、9日矢柄城の攻撃に結集して、周囲の出城を落とし、1カ月後の8月7日に宇津峰城に総攻撃をかけたが、天嶮による本城は容易に落ちなかった。
包囲軍はいったん攻撃を中止し、翌文和2(1353)年2月再び攻撃を開始した。国魂氏らは2月28日に河曲口(郡山市田村町川曲)で火ぶたを切り、4月5日に伊賀氏は東乙森を、蒲田兼光らは柴塚(郡山市栃本)の陣を攻撃してこれをぬき、15日には最後の牙城である星が城(一名長平城)の切岸(壁際)の決戦となり、兼光の子息八郎縫殿助(末光)はここで傷を受けた。南党は山頂に20日間死守して、ついに5月4日全軍壮烈な最期をとげて1年有余の長い攻防戦は宇津峰城陥落をもって終結した。
顕信は宇津峰宮を奉じて重囲を破って脱出し北奥の地に去り、南風競わず奥州は第四の段階に入った。
第五節 古殿諸氏の盛衰
第五節 古殿諸氏の盛衰
南北朝の動乱は明徳3(1392)年に終わった。
古殿地方は、最後の激戦地である宇津峰(埋峯)の攻防戦の背後にあって戦場につながり、さらに、白河・石城の中間として荒され、一帯の村々は疲労のどん底にあった。特に農民たちは、合戦のために人夫としてかり出され、兵糧は徴収され、田畑の作毛は刈りとられ、家を焼かれ、働き手や若い子女を失い、まさに塗炭の苦しみを味わわされた。

一 蒲田氏・竹貫氏
明徳5年(1394応年元年)7月に、石川の一族である大寺道悦と竹貫貞光が、石川庄吉村について所領争が生じている。大寺氏は須釜の大寺に分立した石川庶流でも力があった一族で、康永2(1343)年9月の結城親朝注進状案(伊勢結城文書)に見える大寺孫三郎(『しめすへん(示)』に『右』)光の子孫であろう。
竹貫氏は古い時代にはあまり史料に出ないが、南北時代には竹貫六郷の所領を維持していたことが知られている。

ニ 横川氏・千石氏
横川氏は、松川の端郷横川の族で、豊前守を名のる者があった。本貫は松河氏であったようだが、松河氏没落後は竹貫氏に属していたようである。
仙石氏についても、中間の消息を示す資料がない。「角田浅川文書」に「仙石雀ケ城仙石光俊居、永禄年中落城」とある。

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